「大往生したけりゃ医療とかかわるな」中村仁一

高齢者のがんや、親の介護、そしていつか自分自身の死をどう迎えるのか、どうしたいのかを考えることも大事なことと思います。

良かったら、どうぞ参考にされてください。

この本の裏表紙

「3人に1人はがんで死ぬといわれているが、医者の手にかからずに死ねる人はごくわずか。中でもがんは治療をしなければ痛まないのに医者や家族に勧められ、拷問のような苦しみを味わった挙句、やっと息を引きとれる人が大半だ。現役医師である著者の持論は、「死ぬのはがんに限る」。実際に最後まで点滴注射も酸素吸入もいっさいしない数百例の「自然死」を見届けてきた。なぜ子孫を残す役目を終えたら、「がん死」がおすすめなのか。自分の死に時を自分で決めることを提案した、画期的な書。」

p49 「自然死」の年寄りはごくわずか

「自然死」は、いわゆる“餓死”ですが、その実態は次のようなものです。

「飢餓」…..脳内にモルヒネ様物質が分泌される

「脱水」…..意識レベルが下がる

「酸欠状態」…..脳内にモルヒネ様物質が分泌される

「炭酸ガス貯溜」…..麻酔作用あり

詳しくは次の章で述べますが、死に際は、何らかの医療措置も行わなければ、夢うつつの気持ちのいい、穏やかな状態になるということです。これが自然のしくみです。自然はそんなに過酷ではないのです。私たちのご先祖は、みんなこうして無事に死んでいったのです。

ところが、ここ30~40年、死にかけるとすぐに病院へ行くようになるなど、様相が一変しました。病院は、できるだけのことをして延命を図るのが使命です。

しかし「死」を、止めたり、治したりすることはできません。しかるに、治せない「死」に対して、治すためのパターン化した医療措置を行います。例えば、食べられなくなれば鼻から管を入れたり、胃瘻(お腹に穴を開けて、そこからチューブを通じて水分、栄養を補給する手技)にによって栄養を与えたり、脱水tなら点滴注射で水分補給を、貧血があれば輸血を、小便が出なければ利尿剤を、血圧が下がれば昇圧剤というようなことです。

これらは、せっかく自然が用意してくれている、ぼんやりとして不安も恐ろしさも寂しさも感じない幸せムードの中で死んでいける過程を、ぶち壊しているのです。

しかし、患者、国民のみならず、医療者にもこの認識が欠けています。

2011年2月の日本老年医学会において、食べられなくなった末期の85歳のアルツハイマーの患者に対して、どうするかの問いに回答した1554人のうち、すべてを控えて何もしないはわずか10%、胃瘻が21%、経鼻チューブ(鼻チューブ栄養/鼻から胃まで管を通して水分、栄養を補給する手段)13%、手や足からの点滴注射が51%と半数以上を占めたとのことです。そして、この手や足からの点滴注射は「患者にとって医学的に必要」との考えが38%、約4割だったという驚くべき報告をしています。専門である老年科医でさえも、このありさまです。

私たちは枯れている植物に肥料をやるでしょうか。万一、肥料を与えたとしても吸収しませんから、植物に害はありません。

ところが、人間の場合は違います。体内に“肥料”を別ルートから無理やり突っ込むわけです。いかに、死にゆく人間に苦痛と負担を強いているか、想像に難くないでしょう。

年配の葬儀社の方に聞くと、「昔は年寄りの納棺は、枯れて亡くなっているので楽だった。しかし、今、病院で亡くなった人の遺体は重たくて大変だ」といいます。最後の最後まで、点滴づけ、水づけですから、いわば“溺死”状態。重いのは当然といわなければなりません。

では、年寄りの“刈れる”時期は、正確に判断できるのか、ということになります。枯れかけているように見えても、“肥料”をやったら持ち直すことが間々あるではないか。たしかに、がんと異なり、年寄りの“枯れる”時期の見当は、つけにくいことは事実です。

でも、たくさんの“自然死”の年寄りを見てきますと、何となくわかるように思います。いいかげんな勘というのではありません。今、病院などでは、栄養障害改善のため、医師、看護師、薬剤師、栄養士などの多職種が集まって栄養サポートチームを作り、患者の栄養改善に努めています。

その際に使用する栄養評価方法のうち、主観的包括的評価法(SGA)で、高度栄養障害の部分を転用させてもらうのです。具体的には、食が細って、食事量が減り、その結果として体重減少(1ヶ月に5%以上、3ヶ月で7.5%以上、6ヶ月で10%以上)があり、歩いていた状態が歩けなくなったり、立つことができた状態が立てなくなったり、ちゃんと座れていた状態が身体が傾いてしまうというように、日常の生活動作に障害が現れてくることなどです。

これは、血液検査データなどから想定する客観的データ評価法(ODA)に比べ、より簡便でどこでも行えるという利点があります。

このようなことが見受けられると、“枯れ始めた”と考えて、あまりはずれることがありません。家庭では、体重を量るのも大変でしょうが、老人ホームでは毎月行っていますので、チェックを入れやすい状況にあります。

私は、“枯れ始めた”と思われる時点で、家族に話をすることにしています。

私は勧めないけれども、今は、胃瘻という“強制人工延命措置”があり、家族、縁者で話し合って結論を出すように伝えます。この手続きを踏んでおかないと、権利意識の強くなった家族から、後で「そんなよい方法があるのに、どうして知らせてくれなかったんだ?」と、大変な騒動に巻き込まれる可能性があるためです。

したがって、「自然死」への強制や誘導は、いっさい、行うことはありません。

ですから、家族から胃瘻の希望が出されれば、黙って病院への紹介状を書いています。

表1(本に掲載されています)に、同和園における自然死の状況をのせましたが、皆さん、とても穏やかなそうな死に際だったことが強く私の脳裏に焼きついています。

p100 「がん検診」は必要か

「がん検診」は身体によくないと、定年退職を機に“診断断ち”をして、晴れ晴れとした気分で過ごしている知り合いが何人もいます。

なぜ身体によくないかを聞いてみすと、「たとえがんでなくても、少しでも異変があれば精密検査に回される。回された方は、『がん検診』を受けて『精密検査』といわれたら、心穏やかでいられるはずがない。もしも、がんだったらと思うと、心も千々に乱れ、夜も眠れない、食欲は落ちる、仕事に身が入らないなど、結果がわかるまで生きた心地がしない。おまけに、精密検査の結果が出るまで10日も2週間もかかる。こんな気持ちを味わうのは、もうたくさんだ。さらには、精密検査で胃に穴が開いた、腸に穴が開いたなどという話も聞く。世の中には知らない方が幸せということもあるのではないか。こんな思いを繰り返すことに耐えられない」といいます。

p106 「早期発見の不幸」「手遅れの幸せ」

がんが老化であることは、前述したと通です。また、「がん検診」は、早すぎる死を回避する手段だということも申しました。

とするなら、繁殖を終えて、生きものとしての賞味期限の斬れた「還り」の途上にある年寄りには、もはや、早すぎる死というものは存在しないことになります。

ならば、あまり「がん検診」などに近寄らない方が得策といえます。

これまで、70歳前後の何人もの有名人が、よせばいいのに、健康であることの証明欲しさに「人間ドック」を受けてがんが見つかり、目一杯の血みどろの戦いを挑んだ末、見事に玉砕し、果てています。自覚症状は、全くなかったでしょうから、「人間ドック」など受けさえしなければ、まだ一線で活躍していただろうにと思うと、残念のひとことにつきます。

よしんば、早期がんといわれて、取り切れた場合でも、その後は、一定期間ごとに苦痛を伴う検査を繰り返さなくてはなりません。また、無事に5年経った後でも、生きている間はずっと「再発」に怯え続けなければなりません。というのも、ちょっとでも身体に異変が生じれば、ひょっとしたらの思いが脳裏をよぎるはずだからです。

この心理的ストレスは、相当なものと思われます。「早期」だから良かった、安心ということでは必ずしもないようです。しかも、検査の賞味期限は当日限りです。偶然見つからなかったということも考えられます。

生きている間は、こんなことがずっと続くわけですから、これを「早期発見の不幸」といいます。

一方「がん検診」や「人間ドック」に近寄らなかった場合はどうでしょう。がんは痛むといいますが、それならどうしてもっと早く見つからなかったのでしょう。不思議でなりません。

症状のないまま、普通の生活をしていたら食が細り、やせてきて顔色も悪いので、周囲が心配して無理に検査をうけさせたら、手遅れのがんだった。そんな話をよく耳にします。

繰り返しになりますが、なぜ、そんなに進行するまで病院に行かないのでしょうか。痛まないからというのが、その答えとしか言いようがありません。

一見、手遅れの発見は、不幸の極みのようにうつります。

しかし考えてみてください。それまで何の屈託もなく、自由に充実した毎日が送られていたわけです。痛みが出なければ、今後も体力が落ちて自由に動くのが難しくなるまで、普通の生活をすればいいのです。

長生きも結構ですが、ただ長生きすればいいというものでもないでしょう。どういう常態で生きるかが重要だと思うのです。私自身はぼけたり、いつ死ぬかわからないままの寝たきりや植物状態で生かされているのは、願い下げです。

繁殖を終えるまで生かしてもらったのですから、もう充分ではないですか。人生の幕引きを思い通りにできるかもしれない「がん死」は最高だと思います。

これを「手遅れの幸せ」といいます。

p108 「がん」で死ぬんじゃないよ、「がんの治療」で死ぬんだよ

がんの治療法は、大きくいうと、手術、放射線治療、抗がん剤治療の3つがあります。

この他にも、免疫治療、がんワクチン療法、温熱療法などがありますが、どれもがんを根絶やしにすることはできません。

がんの治療は、完全に根絶やしにできるものでなけてば、意味がありません。残党が存在すれば、それが増殖してしまいます。

もっとも、抗がん剤も“猛毒”ですから、がんを消そうと思えばできないわけではありません。ただ、がんが消える前に、命が先に消えてしまいますので、実用的ではないということです。

それにもかかわらず、医療現場では、抗がん剤が「効く」とか「有効」という言葉が使われます。それはどういう意味なのでしょうか。

一般的に、「効く」と表現される内容には、次の4つがあります。

①治療

②延命効果

③症状の緩和

④がんの縮小

抗がん剤が効くとして採用、承認される基準があります。それは、レントゲン写真など画像の上で、がんの大きさ(面積)が半分以下になっている期間が4週間以上続くこと、そして、抗がん剤を使った患者の2割以上がそういう状態を呈することというのが条件です。8割もの患者が反応しないようなものが、薬として認可されるなど、他では考えられません。

医療側は、こういう事情を踏まえて「効く」とか「有効」といっているわけですが、患者側は「効く」と言われれば、「治る」あるいは「がんがなくなる」と受け取ったとしても責められません。同じ「効く」という言葉を使いながらも、中身には、天と地ほどの差があるということになります。

そのうえ、抗がん剤はほとんど「毒薬」か「劇薬」指定ですから、当然、強い副作用もあると覚悟しなければなりません。なぜなら、がんだけを攻撃するのではなく、まともな細胞や組織もやられるわけですから。

抗がん剤で治るのは、血液のがんや、塊になるものでは精巣がん、子宮絨毛がんくらいのものといわれます、

胃がんや肺がんのように塊になるがんは、一時小さくなることはあっても、あまり使う意味はないことになります。

また、たとえ、数ヵ月の延命効果はあったとしても、副作用が強烈で小から、ヨレヨレの状態になります。結果的に苦しむ期間が伸びただけというのでは、あまりにも悲惨すぎるのではないでしょうか。つまり、延命は結構なことですが、どういう状態での延命かが問われていると思います。

さらに抗がん剤は“猛毒”ですから、効果はなくても、副作用は必ずあるはずです。ですから延命効果はなくても、宿命効果はあるということです。

いのちを延ばすつもりが、かえって縮める結果になっていると思うのです。

p187 人は生きてきたように死ぬ

「死」が「苦」(ドウフカ)、思い通りにならないもの)であることは2500年前に、釈迦が気づいた永遠の心理です。

ということは、「死に方」や「死ぬ時期」は私たちの自由にならないということです。

すべては、縁、運、時の巡り合わせということになり、同時に「死に方」にいい、悪いもないことになります。つまり「おまかせ」ということです。

では、野放図に生きてもいいのかというと、そうではありません。

少なくとも、年寄りは、繁殖を終えれば死ぬという自然界の“掟”に対して、他の生き物のいのちを奪って生かされている存在です。ならば、それなりの生き方、死に方をしなければならない義務と責任があるはずです。

巷間、問題にされている「安楽死」「尊厳死」は、どうも「死」の部分だけを強調しているきがしてなりません。大事なのは、死ぬまでの「生き方」なのです。

前にも述べた通り、今は昨日の続きです。昨日と全く違う今日は、ありえません。今までいい加減に生きてきた人間が、死ぬときだけきちんと、というわけにはいきません。

これまで、ちょっと具合が悪いと、すぐ「医者よ薬よ病院よ」と騒いでいた人が、延命拒否を声高に叫ぶのは、ちぐはぐだということです。

もちろん、症状軽減のため、医療を利用するのはいいでしょう。

しかし、医療には、若返らせることもできず、死ぬことも防げないという「限界」が厳然としてあるのです。今後どんなに医療が発達しようとも、“老いて死ぬ”というおおわくは、どうすることもできないでしょう。大事なのは「今」なのです。

今の生き方、今の周囲へのかかわり方、今の医療の利用の仕方が、死の場面に反映されるのです。「今」の生を考えるために「死」の助けが必要なのです。

いのちの有限性を思い、「死」を考える具体的行動(例えば棺桶に入る)をとることで、「生き方」の点検、修正を、その日まで繰り返すことが必要です。

やはり人は、事件、事故、災害やぽっくり死は別として、生きてきたように死ぬのです。

世の中は 今日より外はなかりけり

きのうは過ぎて明日は知られず

今という 今こそ今が大事なり

大事の今が 生涯の今

以上です。

どんな人生にしたいのか、どう生きるのか、どう死にたいのか。

自分で決めて、悔いのない人生にしたいものですね。

人任せではいけない!!

自分の人生のハンドルを自分自身でしっかりと握りしめて、最後までワクワク😃💕楽しんでドライブして行きましょう‼️

私は、2007年からもう12年くらい薬を飲んでいません。

会社務めをしていた頃の健康診断以外で病院に行ったのは、歯科だけで、若い頃に詰めていたものが取れたので詰め治しただけです。

重曹で歯を磨くようになってから虫歯ができませんね。😊

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