(写真は、いつもお世話になっている方に作ってもらったローズクオーツのお数珠です。)
昨日、93歳の大好きな叔母さんが亡くなりました。
私が子供だったころ、叔母さんの子供は男の子ばかりだったからか、私のことをとても可愛がってくれて、良く泊まりに行っていました。
そしてとっても笑顔が素敵な叔母さんでした。
いつもニコニコしていて、叔母さんがいると、本当に回りが一気に明るくなりました。
小柄だけど、とっても大きい人でした。
ここ1年は、ベッドで過ごすようになり、お嫁さんにいろいろお世話になっていたそうです。
このお嫁さんもまたとっても心の優しい人で、お互いに何かしてもらったら、「ありがとう」と「感謝」の言葉をかけていたと、よく聞いていました。
お互いに大事にしているのが、よく解りました。
そしてこの93歳の叔母さんは最後まで、頭がしっかりしていてボケることがなかったのです。
私はこの叔母さんから、「笑顔」と「感謝」が大切なことを改めて教えていただきました。
今年の1月にお見舞に両親と一緒に行き、その頃から毎日叔母さんの幸せを思い遠隔浄化をしていました。
病院にも何回か行きました。
親戚の人やお孫さん達の誰かがほとんど毎日きているようで、大きいカレンダーに、鉛筆で誰が来たかとか、今日の叔母さんがどうだったかとか、いっぱい書き込みをしていました。
叔母さんは、本当に多くの人に愛されているなあと思いました。
「生きていくあなたへ」日野原重明から、
今まで沢山の人の死を見てきた先生にとって、死とはどのようなものですか?
「新しい始まり」という風に感じます。
死ぬということは、多くの人にとって、まるでとかげのしっぽがきれるように終わるものだと考えられていますが、たくさんの死をみとってきて感じるのは、終わりではなく、新しい何かが始まるという感覚です。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。」
これは、聖書の中でも僕の好きな「ヨハネによる福音書」の一部です。
麦が死ぬというと、何かさびしいような気がするかもしれません。
でもそうではなく、麦が地面に落ちれば、翌年にまた多くの実を結ぶことになる。
つまり、一粒の麦は死ななければいけない、死ぬことによって、無数の麦の誕生につながるという希望を示しているのです。
僕は妻をはじめ、たくさんの親しい人を亡くしましたが、亡くなった後のほうが、むしろ生きていたときよりも、その人の姿が僕の中で鮮やかになっていくのを感じます。
そして彼らがかけてくれた言葉の意味が、死んだあとに、心の中でより深まっていくということを経験してきました。
たとえば妻とは、今もともにいるという感覚があるのですが、その実感は、彼女が生きていたときよりも、強くなっているのです。
死によって、しっぽがきれるように終わるのではなく、今もなお続いている、しかも以前とは違うもっとはっきりとした形で…..そういう感覚です。
だから僕自身も、死そのものはこわいのですが、そこで人生のすべてが終わるという感覚よりも、新しいものが始まる予感の中にいます。
多くの人の死を経験し、そしてその時が自分にも確実に迫ってきている、この歳になって持つことのできた感覚です。
これまでは医者として人々を助けるためにこの世での時間を使ってきましたが、新しい世界でこそ僕の本当の仕事がはじまるような気がしています。
本当の仕事をするとき、僕の肉体はこの世にないかもしれません。
それでも、一粒の麦のように、死によって僕の残した言葉が豊かに実っていくことを願っているのです。
以上です。
ここ1ヶ月毎日、叔母さんを遠隔で捉えて、浄化していたので、とても身近に感じています。
叔母さんの顔が見るたびに変化していました。
肉体の限界によって魂が次に向かうことで、命が尽きる。✨
93年という年月を同じ肉体を(新陳代謝をしながら)使って生きることを想像すると、人間て、凄い❗ですね。
自分の体を大切にしましょう。❗
どこかにもっとすご~く高齢の仙人さまがいるのだそうな。
自分自身が何歳まで生きるのでしょうかね?
健康で喜びに溢れ、ワクワク楽しく生きよう。❗
そして「笑顔」と「感謝」を表現していこう❗
まずは、「F叔母ちゃん、ありがとう。感謝です。」(*^-^*)
明日は、お葬式です。
Keep on going ❗ (*^ー^)ノ♪