2018.4.11 デイリールーツファインダーから、
『榎本さんとご縁を頂いてから、
「みんなちがってみんないい」をこれまで幾度も繰り返し目にし、お会いして教えていただいていたのに、わかっていませんでした。
府に落ちるまで何度も読み返しました。
今回初めて思い知ったことは、自分を信じきっていなかったこと。
いずれ肉体を離れる時がくることを頭では理解していたつもりだったのに、結局は魂よりも肉体を優先させていたことでした。
どこかに肉体を優先して、~しないといけない、~すべきを手放せていなかった。
なんだ、自分が許すことも求めてもいいんだ…..
そうか、祈ってもいいんだ…..
(「拝む」と「祈る」を混同していました。)
自然災害があってもなくても、日常生活から、周りも自分も「みんなちがってみんないい」で許しあえばいいにのか!
なんだかどう表現していいのか、何がいいたいんだかわからない文章ですみません。
「みんなちがってみんないい」こそ、無条件の愛だと思います!
もうごちゃごちゃ考えずに、「みんなちがってみんないい」で、何が起ころうとも、「今」を楽しんで「みんなと仲良く楽しく喜びにあふれる」生き方を選択する!
これでいきます。』
そうです。そうです。
人生それ以外にすることはありません!
以上終わりです!(笑)
病気や不幸というのは、「みんなちがってみんないい」で、「みんなと仲良く楽しく喜びにあふれる」生き方を選択していないところにしょうじるのです。
◎自分を信じていないことが不幸の源
このメールで本当に素晴らしいと思ったのは、この部分です。
『今回初めて思い知ったことは、自分を信じきっていなかったこと。
いずれ肉体を離れる時がくることを頭では理解していたつもりだったのに、結局は、魂よりも肉体を優先させていたことでした。
どこかに肉体を優先して、~しないといけない、~すべきを手放せていなかった。』
素晴らしい洞察です。
不幸の源を見抜く洞察です。
自分を信じていないことが不幸の源なんですよ。
◎「肉体を優先」し、自分の「自由な魂」を肉体の必要性に自ら屈服させている
例えば私は、今度のGWに年末に卒業以来に再会した中二のクラスメイトが、クラス会を開いてくれるというので広島に行ってきます。
しかし、結婚して数十キロ離れた岩国市に住んでいるIさんが旦那が厳しくてクラス会に参加できないって言うんですよ!
みんなであうんですよ!
女子(というか大きくなっていますが、(笑))もたくさん来るんですよ!
それでもダメだと言うんです。
でも、その子は本当にみんなに会いたがっている。
それで私を発見してくれた友達が、「おい榎本、俺たちとあと女子何人かで、俺が車たすから、昼にあいつの街に行って、カフェでお茶でも飲みに行かないか。」と言うんです。(いいやつやなあ~。」
「ああいいよ。是非行こう。懐かしいね。」て、た返事しておきました。
まあお昼に何時間かカフェで彼女と一緒にみんなでお話するだけです
なんといいますかね。
買い物に行く時間くらいしか出かけられないって言うんですよ。
門限があるのかな(笑)
夜の外出は許さんわけです。ご主人が。
それで彼女は夜出かけられないのです。
『まぁあなたは私が鳥取に行った時にカフェで楽しくおしゃべりして、夜も海辺の素敵なレストランに連れて行ってくださったくらいだから、こういうことは信じられないかもしれませんが、本当の話です。
あなたみたいに「私はお酒も大好きです。」というくらいでちょうどいいのですけれどね。(笑)』
どうして彼女はそんなこともできないのか?
まあ、簡単にいうとご主人の機嫌が悪くなるからです。
で、ご主人が機嫌が悪くなったらどうなるのか、手を上げたり出ていけと脅されたりするのかもしれません。
そうすると最悪の事態って何かというと、「出て行くこと」ですよね。
まあそういうご主人だと離婚になっちゃうかもしれない。
だいたい私たち中二クラスメイトは子供は大学生か社会人になりつつあります。
子育ても終わりつつある。
だからもう子供の問題はない。
後は本人次第です。
彼女もこのままの事態を続ければ、まあ、食べていくこと「肉体の維持」に関しては問題ないでしょう。
しかし、クラス会に参加することもできない。
結局彼女も「肉体を優先して、夜には家にいて家事をしないといけない、夕方には帰宅すべきを手放せない」わけです。
「みんなちがってみんないい」私は私で違っていい。「今」を楽しんで「みんなと仲良く楽しく喜びにあふれる」生き方を選択することができない。
なぜか。
それはやはり「肉体を優先」していて、自分の「自由な魂」を肉体の必要性に自ら屈服させているからです。
ほとんどすべての問題は突き詰めればこの問題です。
自分は「肉体を優先」して、「~しないといけない、~すべき」という制服を自分の人生に受け入れ続けるのか、本当は「みんなちがってみんないい」でみんなと仲良く楽しく喜びにあふれる」生き方を選択したいという、実に当たり前で当然の選択をするのかという問題なのです。
どうしたらそうできるのか?
◎ああ、もうこんな人生もう嫌だ!と思うことです(笑)
「ああ、もうこんな人生もう嫌だ!」と思うことです(笑)
子育ても終わりつつあるし、これからは誰に遠隔することなく自分の人生を存分に生きたいと思うことです。
誰に迷惑をかけるわけでもなく、だだ自分の人生を「みんなと仲良く楽しく喜びにあふれる」ものにしたい。
そう切実に願うことです。
「しかたがない。私の人生はこんなもの。」と思っている人の人生が変化することはありません。
本人が「妥協する人生を選んでいる」からです。
多くの人が「妥協することを自分で選んでいる」のです。
その大きな原因が自分を信じられないからです。
もし主人が怒ったら、離婚になったら私はどうすればいいんだろう。
不安です。心配です。
そんかことになるくらいなら、はじから私が我慢すればいい。
それが彼女の結論です。
彼女は一生それを続けるかもしれない。
そうすると来世もそれを続けるでしょう。
それが彼女のパターンだからです。
これから何回もの転生で同じような人生を生きるかもしれない。
それが彼女の選択です。
その自分のパターンを破るのは、すべて自分の責任なのです。
自分でその人生を引き寄せているのですからね。
しかし、いつかはパターンを自分で破るんですよ。
人間の本質は、自由な魂であり、「みんなと仲良く楽しく喜びにあふれて」生きたいからです。
どうすればそれができるのか。
◎自分を信じ切ること
自分を信じ切ることです。
もしクラス会に参加したら、ご主人は怒るかもしれない。
最悪離婚になるかもしれない。
だだ不安におびえるだけでなく突き詰めて考え、
「それがどうした!」
そう思うことが自分を信じることです。(笑)
そうなったら、いやそうならなくても。
「実家に帰らせていただきます。」と一言手紙に書いて、荷物をまとめて実家に帰ればいい。
そんな人生は生きているとは言えないからです。
そして、パートでもなんでもして、お金を稼いで、クラス会でも何でも参加して、やりたいことをやって、経験したいことをし尽くしてこれからの人生を謳歌すればいい。
そうすると、来世はその続きから始まります。
先ほど「妥協することを自分で選んでいる」といいました。
「自分で選んでいる」んですよ。
「自分で選んでいる」なら、自分で脱することができるのです。
それが人間の自由であり栄光です。
実は、この世に存在する問題はすべて自分で解決できるのです。
自分で籠の鳥で居続けることもできる。
「実家に帰らせていただきます。」ということもできる。
すべては自分の選択なのです。
しかし、自分で選択する覚悟がない。
それが「自分を信じられない」ということです。
しかし、いつかはそれをやるんですよ。
今生やるか、来世するか何回か転生した後にやるかだけの違いです。
なぜなら誰もが「自由に喜びにあふれて生きたい」からです。
この「自由に喜びにあふれて生きたい」というのが「魂の欲求」です。
「離婚したら生活にこまるんじゃないか」それが「肉体の必要性」です。
簡単なことです。
自分の肉体の必要性を自分で満たせばいいのです。
つまり雨露しのげる場所を確保し食べるものを自分で確保する、そうできると「自分を信じ切ること」
そう覚悟を決めて、
「実家に帰らせていただきます。」ということ。
それが変化をもたらします。
実は彼女がそう覚悟を決めて、口に出せば、ご主人はおれるかもしれない。
最終的に人の自由を抑圧する動きはすべて敗北するのです。
フランス革命やアメリカ独自宣言、奴隷解放...など、「自由」を求める動きは最終的に必ず勝利するのが歴史的必然です。
それは家庭など個人的な人間関係でも同じなのです。
すべての問題は
『結局は魂よりも肉体を優先させていたこと
どこかに肉体を優先して、~しないといけない、~すべきを手放せていなかった。』
ことなのです。
そして自分の魂に人生の主導権を握らせて、肉体はこの素晴らしい地球を経験し尽くすときの素晴らしい道具として、うまく管理し上手に従わせばいいのです。
すべての問題は、人間の本質である「永遠の魂が主人ではなく」本来魂に従うべき「肉体が主人になっていること」にあるのです。
それは、人間の本来の状態ではないから機能不全を起こすのです。
つまり病気や不幸を生じます。
それは、自分の魂を人生の「主人」にして、やりたい肉体を魂に従わせなさいというメッセージなのです。
それが、人間の本来のあり方だからです。
それが達成されるまで、病気や不幸はなくなりません。
ストレス、我慢、抑圧、不満、怒り、..が尽きることがないからです。
喜びに生きていないからです。
ですから不幸や病気はすべて、人間の本来のあり方への是正の動きです。
『結局は魂よりも肉体を優先させていました。
どこかに肉体を優先して、~しないといけない、~すべきを手放せていなかった。』
素晴らしい洞察です!
◎何かもっともらしい理由をつけて「みんなちがってみんないい」と言えない人が不幸の元凶
『今回改めて思い知ったことは、自分を信じきっていなかったこと。』
自分を信じ切っていない時、人生は非常に生きにくくなります。
自分を信じていなければ、人は外に答えを求めます。
ところが、エライ人がすべて「みんなちがってみんないい」と人々を尊重して生きているわけではありません。
「自分を信じていない人」を利用する人がたくさんいるのはご存知の通りです。
利用されるのはいつも自分を信じていない人です。
この世は「自分を信じていない人」は不幸になって、「自分を信じること」に追い立てられるようになっている。
本当に自分に向かって追い立てられるようになっている。
最終的に必ず「本当の自分」に戻れるのが宇宙の仕組みです。
それが、神様の愛です。
自分自身の魂の愛でもあります。
見放される人は誰一人いません。
そして、すべての人に自分で本当の自分に戻る力が与えられている。
常に本当の自分に向かって追い立てられるのが人生ですから、さっさと自分を信じた方がいいのです。
最終的にそうするしか他に方法はないということを理解するのが人生なのです。
それが、「幸福の青い鳥は一番近く(自分自身の中に)いる」という意味です。
エライ人は「私の言うとおりにしなさい!そうすればあなたは幸せになれる。」といいます。
自分を信じていない人は、自信たっぷりにそう言い切る人に従ってしまいます。
それで言われるままに、「裏切り者認定」でも何でもします。(笑)
そうして人々の間に、分裂、不一致、争い、憎しみなどを生じます。
それは結局「みんなちがってみんないい」と思っていない人がそれらのネガティブなものを生み出すのです。
「私に従え!」「みんなちがってよくない!」という人が分裂、不一致、争い、憎しみを生み出すのです。
そういう人が「派閥」を作り、グループ間の対立を生み出すのです。
「派閥の論理」というのは、すべて「私に従え、そうすれば幸せになれる。」というものです。
そして、それに従う人もそれを生み出すことに加担しています。
そしてその源は、「自分を信じていない」ことにあるのです。
「ん!おかしいぞ」「私はこんなことしたくない!」それが自分を信じている人の態度です。
「私は理由はわからないけど、きっと私にわからない理由があるにちがいない。エライ人の言うことに従っておこう」それが自分を信じていない人の態度です。
結局、自分の自信を信じていない人が、分裂、不一致、争い、憎しみ、...などを生み出すことに加担することになるのです。
不幸というのは、「自分を信じていない人」が生み出すのです。
簡単なことです。
「みんなちがってみんないい」じゃないか!と言えばいいだけです。
何らかのもっともらしい理由をつけて「みんなちがってみんないい」と言えない人が不幸の元凶です。
「みんなちがってみんないい」の人は、そもそも「派閥」を作ろうという発想すら、頭をかすめもしません。
そもそもグループを作る必然性冴え、感じない、そこに所属する必要性も感じない。
派閥というのは自分を守るために作ってたり、属したりするものです。
そもそも「みんなちがってみんないい」の人は、自分を守る必要性を感じない。
なぜなら、いつでもみんなと楽しく過ごせることを知っているからです。
どうして人を区別し、色分けしないといけないのか分からない。
「みんなちがってみんないい」だけですからね。
奥さんを外出させないご主人も同じです。
「みんなちがってみんないい」と言えない人は不幸を産み出さざるを得ない。
なぜなら、何が幸せかは本人しか決められないのです。
◎なぜ「みんなちがってみんないい」と言えないのか
なぜ「みんなちがってみんないい」と言えないのか
なぜ奥さんに「クラス会に行きたいなら行っていいよ」と言えないのか。
それは自分を信じていないからです。
もしかしたら、クラス会に行って楽しく過ごして、男ができて浮気でもするんじゃないか。
クラス会に行く前から、極端に言えばそう思っているのです。
はじめから、「自分が裏切られるんじゃないか」と思っているのです。
それはクラス会に行ったくらいで、俺から家内の心が離れてしまうかもしれないくらい、自分はつまらない男だと思っているからです。
自分が信じ切れていないのです。
ですから、人の行動を制限したくなる。
常に自分の監視下においておきたい。
人の行動を制限しないと何か問題が生じると思っているのです。
人を自由にすると問題が生じると思っているのです。
それは、人の自由を制限しないと問題が生じると考えている「本人の自信のなさの問題」なのです。
結局人の自由を制限するあらゆる言動は、自分の自信のなさの現れです。
◎結局、人を制限するのも、人の制限を受け入れるのも自分の自信のなさの現れ
結局、人を制限するのも、人の制限を受け入れるのも、自分の自信のなさの現れです。
まあ、要するに傷のなめあいみたいなものです。(笑)
自分に自信のない人同士が、そういうゲームを繰り返している。
自分が楽しんでいない人は、自分の周囲の人が楽しむのが、許せないのです。
なずなら、自分が相対的に不幸に見えるからです。
「私もこれだけ我慢しているのだから、あなたも我慢すべきだ。」これがそういう人達のしているゲームです。
もうそういうゲームをしている人たちがいたら、静かに立ち去って、そういうゲームを続けたい人同士でやってもらったらいい。
それしかありません。
『「みんなちがってみんないい」こそ、無条件の愛だと思います。
もうごちゃごちゃ考えずに、「みんなちがってみんないい」で何が起ころうとも「今」を楽しんで「みんなと仲良く楽しく喜びにあふれる」生き方を選択する!
これでいきます!』
それでいいです。
それで何か問題ありますか?(笑)
何もないのです。
だだ「みんなと仲良く楽しく喜びにあふれる」だけです。(笑)
以上です。
とても、とても大事なことです。
どうぞお役立てください。