なぜ私たちは存在するのか ウイルスがつなぐ生物の世界 著者 宮沢孝幸「人類が生命の真の姿を知ればきっと人類は調和と平和を求める精神的により完成された生命体になるのだと信じています。」

ウイルスについて知りたいと思い、いつもの本屋さんに行くと、ウイルス学者の本を見つけました。

ぜひご参考に。😊

なぜ私たちは存在するのか

ウイルスがつなぐ生物の世界

著者  宮沢孝幸

「遺伝子を運ぶウイルスの謎」が新しい生命観を生んだ

から抜粋させていただきます。

本の内容の9割以上はまったく解りません🤣が..。

第9章  場と生命、そして宇宙

p196  個とは何か

なぜ人は死を怖がるのでしょうか。

本能と言えばそれまでですが、亡くなる前の苦痛だけではなく、自分が消滅してしまうことに恐れを抱くのではないでしょうか。

もし魂というものがなかったら、肉体とともに自分が消えてしまいます。

また、たとえ魂というものが存在したとしても記憶が消されてしまうのだとしたら、一体、自分は何のために生きているのだろうかと嘆くのではないでしょうか。

私は若い頃にそんな考えに陥って苦しんでいました。

突き詰めて考えてみると、死の恐怖の原因は「自分は存在する」という感覚です。

果たして自分は本当に存在しているのでしょうか、そして死とともに消えてしまう存在なのでしょうか。

私は園芸好きな父親の影響もあって、小さい頃から植物に興味がありました。

小学生の時から父の見よう見まねで、サツキを集めて育てていました。

変わった形の花を咲かせるサツキを集めて楽しんでいたのです。

サツキは、簡単に挿し木で増やすことができます。

梅雨の頃に枝の先を切って、土に挿して水を与えていると、根が生えて、育ってきます。

つまり、一つの個体になります。

親株から切り離された枝が一つの個体になるのだから、1本。木はおのおの枝(個体となり得る要素)が集まった集合体と捉えることもできます。

植物に意識があるのかどうかはわかりませんが、たとえ意識があったとしても、個の概念はない、あるいは極端に薄いのではないかと思います。

大腸菌はどうでしょう。.....

では、動物はどうでしょうか。...

生殖細胞のレベルで捉えると、卵子や精子のもとになる細胞は分裂して増えていってそれぞれが個体のもとになっています。

子孫ができていく限り生殖歳の連続性は途切れることはありません。

あれこれ考えると、個というもの自体、結構曖昧なものであることに気がつきます。

p199  超個体という考え方

私たちの体の中には病気を引き起こすことなく感染(不顕性感染)しているウイルスがいます。

最近の研究では、健常なヒトの体内において、少なくとも39種類のウイルスが常在的に感染していることも報告されています。

ただし、それだけの種類のウイルスが同時に感染しているわけではありません。

健康な547人の体内を調べてみたら、これだけの種類のウイルスが選出されたということです。

その中には、単純ヘルペスウイルスやEBウイルスなどのヘルペスウイルス、さらには季節性の風邪を起こすとされるコロナウイルスもありました。

どんなに健康な人でも、少なくとも数種類は持続的にウイルスに感染しているのです。

もちろん、ウイルスだけではありません。

腸内には約1000種類、100兆個もの細菌がいると言われています。

人体は、数多くの生命体から成る1つの大きな複合体と言ってよいでしょう。

体の中では、数多くの生き物が関係性をもって、いろいろなやりとりをしています。

実際、腸内細菌は人体の免疫システムと深く連携しています。

また、本書でここまで説明してきたように、ウイルスは個体間の遺伝情報のやりとりをしています。

細菌も同じような役割を担っています。

体の中と外で、生命のネットワークが何重にも重なるように相互に関係し合っているのです。

人体を「超個体」と表現する研究者もいます。

人体は、単体では維持できないからです。

ヒトという種だけでヒトの体が維持されているわけでもありません。

このように考えると、自分は一体何者なのか、そして自己と非自己の境界は一体どこにあるのか、ますますわからなくなってきます。

p201  生命が集まって一つの「生命の場」を作っている

私たち人間は一人では生きていけません。

これは社会的な話でもありますが、生物学的にも人間は人間だけでは生きていけません。

生命を維持するには動物も植物も微生物も無機質も必要です。

そしてまた、生き物すべてが単体では生存し得ません。

考えてみてください、人間だけが存在する地球はあり得ないのです。

単なる生態系や食物連鎖ではなく、地球規模の物質の循環があったり、ウイルスなどによるほかの生物との遺伝子のやりとりがあったりなど、多くの関わりの中で生物は生命を営んでいます。

他者との関係性の中で私たちは生きているのです。

地球の環境において、いろいろな生物といろいろな無生物がつながっていて、みんなで「生命の場」を作っている。

その中でウイルスは生物と生物の間をつなぐ役割を担っている。

見えない細かい横糸のように無数の生物たちを結びつけることで、生命の場をより厚みのあるものにしているのだと思います。

ウイルスは、まさに生命の場の一部であり、生命の場を作り出す構成要素です。

このウイルスがなくなれば現在の地球上の生命の場は壊れるのではないかと、私は思っています。

p202  私たちもウイルスのような存在である

精製したDNAは結晶化されますし、DNAは遺伝子工学で切ったり貼ったりできます。

DNAはあくまで物質なのですが、細胞という生命の場に放り込まれると、生き物のような振る舞いをするウイルス粒子が生じて、細胞間を渡り歩く存在となります。

未受精卵から細胞の核を抜き出して、別の成体の体細胞の核を入れると、そこから一つの個体が発生します。

この技術を応用したものが「クローン動物」です。

ヒトで行われていないのは、倫理上の問題であって、技術的には今すぐにても可能です。

このことから、私たちの設計図は核の中のDNAにすべて書かれていると考えてよいでしょう。

DNAが私たちの本質だとしても、そのDNA自体はさまざまな生き物の設計図で占められているのです。

もともとの遺伝子の配列はわずか1.5%に過ぎません。

割合では本来の遺伝子よりもはるかに多い配列がレトロウイルス由来の情報で占められているのです。

この世界ではウイルスを介して遺伝子が飛び交うように動いています。

網をかけたかのように、この生命の場を覆っています。

遺伝子レベルでも、私たちはウイルスを介してつながっているのです。

地球上で人間は偉そうにしていますが、所詮私たちも、ウイルスのようなものです。

私には、ウイルスと人間に本質的な違いはないように見えます。

ウイルスは細胞という生命の場がないと、作られることも存続することもできません。

私たちもウイルスと似たよいな儚い存在です。

地球が大きな生命体だとしたら、そこに存在して初めて私たちも「個」として存在します。

そしてその個の集まりが生命体を作っているのです。

もし生命の場や関係性がなくなれば、生物はすべて物質になるのだと思います。

p204  私たちは星の子である

私たちの体はさまざまな物質から成り立っています。

赤血球に含まれるヘム鉄は酸素と結合して酸素を体中の細胞に運んでいます。

鉄はDNAの合成にも必須であり進化にも重要な役割を担ってきました。

地球のおよそ30%を占めている鉄はいつどのようにしてできたのでしょうか?

宇宙の始まりであるビッグバン(約140億年前)の時点では鉄などの重元素はまだ存在していませんでした。

最初の宇宙は軽い元素だけでできていたのです。

その後誕生した恒星の内部で核融合により重い元素ができ、超新星爆発で広く宇宙空間に広がりました。

そして、それらは次の世代の恒星とその周りを回る惑星に取り込まれることになります。

私たちの体を構成する元素は過去の宇宙の恒星の中で生まれたのです。

私たちは星の子ともいえる存在なのです。

現在の太陽は最初の宇宙の恒星の孫に当たる第三世代と考えられています。

その太陽の周りに物質が集まってできたのが地球で、そこに星の子である私たちが生まれたのです。

p205  生命が生まれたのは必然か偶然か

生命にとって重要なのは、遺伝情報をもつ物質と生命の場です。

生き物たちが作り上げている生命の場に、DNAあるいはRNAという物質を入れると生命体として振る舞い始める、ていうのが私の考えです。

では、「生命の場」を作り出している根源は何なのでしょう。

物質がもともともっている性質で生命の場が作り出されるのでしょうか。

これは私にはわかりませんし、これから人類が存在する限り永遠に問い続ける命題だと思います。

ただ、私は宇宙で生命体が存在するのは必然であって偶然ではないと考えています。

地球上にいる生物は、地球という生命場がなければ存在し得ない。

もっと簡単にいうと、地球自体が一つの生命体である。

この生命観を広げてもよいならば、生物と地球と宇宙との関わりも考えなくてはいけないのではないかと思えてきます。

私は、生命の「種」は宇宙ができて数十億年後にできたのではないかと思っています。

それが鉄のような重元素と宇宙全体に広まっているのっはないでしょうか。

現在の化学では、DNAやRNAは地球で生成されたと考えられていますが、生命のシステムは宇宙からやってきたかもしれない、と私は真剣に考えています。

地球には生命体がたくさんいます。

ウイルス程度の大きさだと、空気中に漂い続けています。

海の中にもウイルスはたくさんいて、波しぶきとともに舞い上がれば、その中にいたウイルスが風にのって空高く上昇していきます。

上昇気流に乗れば、成層圏にまで到達するはずです。

実際に、高層大気にも細菌やウイルスがいることは確かめられています。

かつて、その天体物理学の専門家に「ウイルスが宇宙に漏れ出すことはないのでしょうか?」と尋ねたところ、「粒子の大きさから考えると漏れ出ているでしょう」という回答をいただきました。

海水は..............

もしかしたら、現在の地球もウイルスのような粒子を通して、他の星とつながっているのかもしれません。

宇宙には、過去に存在した地球のような惑星から飛び出た生命の粒子が漂っていて、地球からも飛び出て生命の源として宇宙を旅していく...。

そんなことを思い描くとワクワクした気持ちがとまらなくなってきます。

p208  諸行無常

私はよく学生に「私たちは庭に置いた金魚鉢の中の金魚のようなものだ」と言っています。

.................

しかし、宇宙空間に漂う星のもとになる物質(チリ)は、再び集まって星をつくり出します。

星も生まれては死ぬを繰り返しています。

地球や太陽とても諸行無常から逃れることはできず、生々流転しているのです。

そのように考えると、この地球すらも宇宙空間に漂うウイルスのような儚い存在であるのです。

p210  諸法無我

原っぱを眺めていると思うことがあります。

夏に原っぱを見て、翌年の夏にまた同じ場所に立ったとき、私たちは原っぱの営みが連続しているように見えます。

去年と変わらないと。

しかし、去年の原っぱと今年の原っぱは異なります。

一年草は、昨年の原っぱの構成要素であったものはすべて死んで、種からの再出発になっています。

春になってまた芽が出て昨年と同じような原っぱに見えますが、その原っぱの構成要素はたとえ種が同じであっても、細かく見れば入れ替わっています。

私たちも、原っぱという場では一つの草花と同じようなものだと思います。

人間も全体で一つであると考えれば、私たち個人は単にその構成要素に過ぎません。

一人の最初の人類から今まで連綿と受け継がれてきた種は、その数を増し社会生活を営むようになり文明を生み、ここまでの繁栄に至りました。

まさに広大な草原です。

生物において存在し続けるということは、再生を繰り返すことです。

個体としては死んでいくけれど、生殖細胞は綿々と受け継がれていく。

だから、私たちはずっと前から存在していて、生まれもしないし、死にもしないのかもしれません。

私は歳を撮るにつれて、個の意識がどんどん薄れてきています。

人間は全体で一つであって、自分は単なる一時的な構成要素であるという感覚です。

生まれて存在していると考えればそうなのですが、そもそも個なんて確たるものはないのではないか。

そう考えると、今の世の中が、個を重視し過ぎていて、全体をあまりにも考えていないのではないかと思ってしまいます。

人は我欲、煩悩まみれなのですが、その原因は強すぎる個の意識なのではないか。

個であることにこだわりすぎていて、我欲をもつことでかえって生きづらくなっているのではないか。

さらには人類全体の存続が危機に陥っているのではないか。

体の中の細胞も不可思議なメカニズムによって全体を再生して、自動的に調和して一つの個体を形作っています。

もしも、ある細胞が自己を主張したとしたらどうなるでしょうか

おそらくコントロールが利かなくなり、結局個体も死んでしまうのではないでしょうか。

一つの細胞ですら、全体が調和するように体の中に存在しているのです。

人間もそれぞれが個の意識をもって個性を発揮したとしても、常に全体の調和と繁栄を考えて生きるべきではないでしょうか。

なにやらウイルス学、生物学、進化学を追究しているうちに仏教の考えに近くなってしまいました。

そのうち、諸法無我は、この世に存在するあらゆる事物は因縁によって生じるものであり、不変の実体である我は存在しないという考え方だそうです。

私が研究の過程で行き着いた考えが仏教の教えに似ているのは、不思議なことです。

日本に生まれついて、日本で生活していたので、そのような考えに自然に行き着いたのでしょうか。

本書で披露した生命観は、現在の私の考えです。

私には正しいとも間違っているともわかりません。

ウイルスを35年間研究してきた、一人の研究者の随想ともいえましょう。

ウイルス研究を通して「お前たちも僕たちと同じなんだよ」とウイルスが教えてくれたように感じます。

今後、人類が生命の真の姿を知れば、きっと人類は、調和と平和を求める、精神的により完成された生命体になるのだと信じています。

その日が来ることを夢見て、私はここに筆を擱きたいと思います。

p213  あとがき

2019年に始まった新型コロナウイルスの流行は、ウイルスによる人的な被害もさることながら、大きな社会的ひずみを顕在化させました。

特に日本における混乱は、複雑な要素が絡み合って起こった現象でした。

高齢化の進む日本で目の当たりにした人々の死生観の違い、過度なコンプライアンス、少しでもミスを犯したら非難される風潮なども大きな問題だったと思います。

.................

新型コロナウイルスが発生して、日本に侵入したとき、私はいち早く、このウイルスは、人と共存するウイルスであると見抜きました。

本書第3章で述べたように、ウイルスというのはそう簡単に排除できません。

コロナウイルスや呼吸器系ウイルスの性質上、新型コロナウイルスも人と共存の道を歩むことは明らかでした。

しかしながら、新型コロナウイルスをこの世から(人間社会から)完全に排除したいと思う人がほとんどでした。

私が流行初期に、新型コロナウイルスは一生のうちに少なくとも一度か二度はかかるだろうと講演会で話したところ、多くの人から驚かれ、また強い反発を受けました。

今では、新型コロナウイルスと共存するのは仕方がないことだと思う人も増えてきましたが、それでもなお、感染することを極度に恐れいる人はいます。

ウイルスの真の姿を知り、社会としては新型コロナウイルスを受け入れる必要があります。

私は、ウイルスは基本的に生物と共存するものだということを本の形で人々に知らせることが、遠回りのようであっても近道なのではないかと考えたのです。

.................

PHP研究所から3冊目の本の執筆のお声がけをいただいたとき、まっさきに思いついたのが、私の生命観をまとめることでした。

とはいうものの、書き始めてみれば、半生を振り返りながら新たに気付くこともあり、自分の思考と向き合うよい機会にもなりました。

本書では、「生命には場が必要であり、実は全体で一つ」「ウイルスが生命をつないでいて、生命の場を提供している」「個という概念をもつことは生物学的に正しいのか」などを述べました。

.................

私は今58歳で、本書は今の私の生命観です。

もし、機会がいただけたら、10年後にでも、私が考える生命観を再度書けたら嬉しいです。

そのときは、今とはまったく別の生命観になっているのかもしれません。

これからさらなる発見があって変わっていくのだとしたら、それもまた楽しみなことです。

私もまだ答えが見つからずモヤモヤとしています。

一生モヤモヤしたままなのかもしれません。

今後も生きている限り、生と死について、疲れない程度に考えて、皆さんと一緒によい人生を送れればと思います。

以上です。😊

ウイルスに対する思いが180度変わりました!

コロナウイルスの影響でウイルスは良くないもの!  ウイルスを入れてはいけない!ウイルスは排除したほうがよい....

などと思っていましたが、

なんと、ウイルスは私たちや生命にとって必要なものだったのですね。

薬や化学物質などをできるだけ体に入れない健康的な生活をして免疫を高めていれば、自然にウイルスや細菌が素晴らしい働きをしてくれるようです。

嫌悪するものは無い方が人生が圧倒的に楽しく喜びに溢れて生きることができます。

世の中の一見良くないものも、観方をかえれば全てが良いものなのでしょう。

その人の人生に必要不可欠で、全てが幸せ💓につながっている。

地球🌍️って本当に素晴らしい✨と改めて思いました。😊

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