「みんなちがってみんないいの生き方」とは「凄くマイナスな愚痴を聞く羽目になってしまい頭まで痛くなって来ています」デイリールーツファインダー

2018.4.27 デイリールーツファインダーから転載させていただきます。

是非ご参考に。😊

「みんなちがってみんないいの生き方」とは「凄くマイナスな愚痴を聞く羽目になってしまい頭まで痛くなって来ています」

以下のメールをいただきました。

「夕方から腰の痛み、背中の痛みが起きてきました。...凄くマイナスな愚痴を聞く羽目になってしまい、このことも身体に影響があるのかも...「みんなちがってみんないい」と直ぐに思い直したのですが、頭まで痛くなってきています💦」

単なる人の悪口など、「凄くマイナスな愚痴」などききません。

馬耳東風です。

しつこいと、「ちょっとごめんね」とその場を立ち去ります。

それが「どういう意図」による発言なのかがポイントです。

◎「ネガティブな感情のごみ捨て場」になっているだけ

いかに相手が悪いか、自分がかわいそうで、いかに自分が正しいか、要するに「凄くマイナスな愚痴」を肯定してもらいたいだけ。

そういうのは私はまったく聞きません。

なぜなら、そういう「凄くマイナスな愚痴」を聞くと「暗黙の肯定」を与えていることになるからです。

その人はこれからもずっと、その「凄くマイナスな愚痴」のゲームを続けていくことになります。

それを肯定することは、その人の「マトリックス」を暗黙に支持していることになります。

その人の「凄くマイナスな愚痴」を強化するだけなのです。

簡単に言うと、あなたはその人の「ネガティブな感情のゴミ捨て場」になっているだけです。

あなたがそれを黙って聞くことによって「いかに相手が悪いか、自分がいかにかわいそうで、いかに自分が正しいか」を賛同してもらい、自分の正当性を確認して胸をおろし、やがてまたその誰かを裁く思考によって「ネガティブな感情」を燃え上がらせ、あなたのところにやってきて、そのゴミを吐き出すわけです。

あなたは一生その人の「ネガティブ感情のゴミ捨て場」です。

◎「みんなちがってみんないい」を履き違えています

〉「みんなちがってみんないい」

それは「みんなちがってみんないい」を履き違えていますよ。

「みんなちがってみんないい」とはそういう誰かに対するネガティブな裁きを肯定するためにあるのではありません。

その人の人生を二元対立の思考で捉えて「凄くマイナスな愚痴」を言い続けることは、その人の選択であり、その人が変えようと思わない限り、変わりません。

「みんなちがってみんないい」とはその人がそういう生き方をしたいなら、それはそれで仕方がないけど、私はそういう選択をしないということです。

その人がそういう選択をするのはその人の選択だけど、私はそれに同調しない。

なぜなら私は「凄くマイナスな愚痴」が好きじゃないし、「ゴミ捨て場」じゃないから。

その人がそれを続けたいならそれは尊重するけど私はそういう選択をしない。

その自分の選択が「みんなちがってみんないい」ということです。

◎「みんなちがってみんないい」とは「裁きのない世界」

その人が裁きのある世界に住み続けるのは仕方がないけど、私は裁きのある世界に住み続けない。

それが「みんなちがってみんないい」です。

「みんなちがってみんないい」とは「裁きのない世界」のことです。

「凄くマイナスな愚痴」を聞かなければ、その人は別の人を探します。

私は「凄くマイナスな愚痴」を肯定する係じゃないし、「ゴミ捨て場」でもありません。

私はもう20代くらいからそういう選択をしているので、誰も私に「誰かの悪口」を言いません。

なぜなら、私が聞かないからです。(笑)

私は、そんなことには一切感心がありません。

そんな無意味なことに人生の時間が無駄にされることがないのは素晴らしいことですよ!

◎その状況からいかに幸せになるかなら、大いに関心がありますし、できることがあれば全力でお手伝いします。

ただ単に「凄くマイナスな愚痴」を肯定して、支えてもらいたいだけの人はごめんこうむります。

わたしは自分の人生を一人でも多く、「より幸せになりたい」と自ら変化しようとする人に注力します。

「より幸せになりたい」と自ら変化しようとする人に注力します。

「より幸せになりたい」と自ら変化しようとする人に注力します。

「より幸せになりたい」と自ら変化しようとする人に注力します。

ここは大事なところですから繰り返しておきます。

「人のせい」と人を裁き「自ら変化する気がない」人に関わっても時間の無駄なのです。

何しろ、その人は「自ら変化する気がない」からです。

その人の人生は、すべてその人の「思考」「言葉」「行動」で構成されており、別の「思考」「言葉」「行動」を選らばなければ、その人の「行動」は変わらないし、その人が人生で経験するものが変化することはありません。

永遠の繰り返しなんですよ。

あなたはその人がもう何年も「同じタイプの愚痴」を繰り返していることに気づいているのではないですか?

相手は変わり、理由は変わっても、それはずっと「同じタイプの愚痴」なのです。

それはその人の生き方なのです。

相手のせいじゃないんですよ。

その人の生き方なのです。

「より幸せになりたい」と自ら変化しようとしなければ、またこれから何年も「同じタイプの愚痴」を繰り返すことはすでに確定しているのです。

そういう「同じタイプの愚痴」のメリーゴーランドに付き合う暇はないのです。

だって退屈ですよ!

いつまでも同じところをぐるぐる回っているだけなんだから!

◎「裁きの世界」を維持することに力を貸すつもりは1ミリもない

「人のせい」の人は変わらないし、変わりたいとも思っていません。

ただ単に「自分の裁き」がいかに正しいか、肯定してもらいたいだけです。

私はそういう「裁きの世界」を維持することに力を貸すつもりは1ミリもありません。

〉ピシャリと、「もういいです、もう結構です。」とシャッターをおろされた。

良かったじゃないですか!(笑)

私は「マイナスな愚痴」の「ゴミ捨て場ではない」と認識してもらったわけですから。

もうそういう「同じタイプの愚痴」のメリーゴーランドに付き合わなくてもいいんですよ!

それこそが福音ってもんです。(笑)

◎「より幸せになりたい」と自ら変化しようとする時、思い出してもらえばいい

それは相手を拒絶しているわけじゃないんです。

相手が自ら「裁きの世界」と「凄くマイナスな愚痴」に生きることを容認しているけど、もし相手が、「より幸せになりたい」と自ら変化しようとするなら、いくらでも話を聞いたらいいのです。

それは拒絶じゃないんですよ。

その人が格闘技が好きだから、その人が格闘技を見に行くのは仕方がないけど、私はサイクリングが好きだから、サイクリングに行くね!というだけの話なのです。

それが「みんなちがってみんないい」です。

その人にあわせて、好きでもない格闘技を一緒に見に行き、自分がまったく何の関心もない格闘技の話をいつまでも聞いているのは退屈ですよね?

そんな人生を続けたいですか?

格闘技が好きな人は格闘技が好きな人同士で盛上ってもらえばいいのです。

サイクリングが好きな人はサイクリングが好きな人同士で自転車旅を楽しめばいいのです。

それが楽しい人生であり、「みんなちがってみんないい」人生です。

自分が好きじゃないことに、自分を無理に合わせることはない。

◎その人が望むなら、二元対立と裁きと愚痴のない世界がどれだけ素晴らしいか、目を輝かせて存分に話せばいい。

そしてもし、その人が「ちょっと私も格闘技に飽きちゃった、サイクリングって楽しい?」「私も自転車に興味が出てきたの」と言えば、「どうぞ!どうぞ!」「ほんとに楽しいんだから!」と二元対立と裁きと愚痴のない世界がどれだけ素晴らしいか、目を輝かせて存分に話せばいいのです。

そして一緒に自転車旅を楽しめばいいのです。

それだけなんですよ。

それが「みんなちがってみんないい」の生き方です。

以上です。😊

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする