本当の不幸の源 旧約聖書の創世記、失楽園の意味するところ デイリールーツファインダー

ここ数日、創世記を検索して読んでいました。

読み進めていくと、???と思い、さらに読み進めていくと、〇〇〇などの宗教だったりします。

榎本先生のデイリールーツファインダーにもあるかなと検索したら、とても解りやすく書いてくださっていました。😊

2012/8/1 「本当の不幸の源 旧約聖書の創世記、失楽園の意味するところ」デイリールーツファインダーから

旧約聖書の『創世記』にはいわゆる『失楽園』と呼ばれる挿話がある。

人間(アダムとイブ)は、「善悪の知識の実」を食べることによって、楽園を失ったという話だ。

この逸話の意味するところは本当だ。

神様は楽園として、この地球を創造されだ。

動物や植物で「俺は不幸だ」などと嘆き悲しみ、ノイローゼになるものなどいない。

野生の鳥や動物はみな美しい。

人間もその楽園の一部だった。

しかし人間だけが「善悪の知識の実」を食べ、思考の自由を獲得し自ら「不幸」というものを生み出した。

善悪は、比較によってうまれる。これよりもあれの方がいい、これよりもあれの方が悪いというわけだ。

ところが本当は私たちが今日飲んだ水が、尿となり、海に流れ、蒸発し、また雨になって誰かの血となっていく。

私たちは一体であり、地球とも一体だ、宇宙とも一体になっている。

そこには本来、あれもこれもない。みんなひとつだ。

「相手が嫌いだ」とか「自分が嫌いだ」「あいつのせいだ」とか。

野生の鳥で日々文句を口にしている鳥などいない。自由に飛んでおいしい木の実を食べ、異性を求めて美しい羽を広げ、きれいな声でさえずるだけだ。

人間は自らの思考で世界を分断し、相手と自分を隔て、自ら不幸になっている。

自然な状態に不幸は存在しない。

思考に不幸の源があると見抜いた禅は、無念夢想の境地を求めて座禅を組んだ。

思考を越えたところに楽園(涅槃)があると気づいていた。

今さら古い教えをひもといて厳しい修行をしろというのではない。

ただ、自らの思考(考え)に不幸の源があり、人間もまた本来病気も不幸も存在しない、楽園に属していることを知ることが大切だ。

自分の考えの不自然さに気づき、自然の本来のあり方に気付いた時、その瞬間私たちは本来の楽園に戻っている。

だから私たちが幸せになるためには、自分の思考の不自然さに気づくことをする以外にすることは何もない。

それが「善悪の知識の実」を食べることによって楽園を失った人間の物語、創世記の失楽園の意味するところだ。

私たちが自らの不自然な思考に気づいた瞬間、この地球の、今私たちそれぞれかいるこの場所が楽園になる。

なぜなら、私たちは神さまが創造された地球の自然の一部だからだ。

小鳥のように羽を広げて自由に飛んで、おいしい木の実を食べて、美しい歌を歌って恋をして暮らせばいい。

すべての人にそれが可能だ。

なぜなら人間は、神様の創造物である自然な地球の一部として創造されているのだから。

以上です。

痛みや病気、不幸の真の原因は、すべて自分自身にあります。😊

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