「窓ぎわのトットちゃん」の映画を見に行きました。
とっても良かったです‼️
以外に男性が多く、私の隣の3人は大学生の男子でしたね。
トモエ学園が自由が丘にあったことにとても親近感が湧きました。
私は30代を東京にいて、3年程自由が丘で働いていたのて、ピーコックがあった場所にトモエ学園があったなんて本当に驚き👀‼️
映画がとても良かったので、本を買って読みました。
本を読み進めると、更に感動💓
映画以外の良いなと思うところを主に抜粋させていただきます。😊
裏表紙
小学一年生のとちゅうで、
トモエ学園に入学したトットちゃん。
それにはわけがありました。
「君は、ほんとうは、いい子なんだよ。」
大好きになったその学校で、トットちゃんは
校長先生の言葉に
大きな自信をもらったのでした。
p12 窓ぎわのトットちゃん
新しい学校の門をくぐる前に、トットちゃんのママが、なぜ不安なのかを説明すると、それはトットちゃんが、小学校一年なのにかかわらず、すぐに学校を退学になったからだった。
一年生で!!
校長先生は、トットちゃんの前にいすをひっぱってきて、とても近い位置に、むかい合わせに腰をかけると、こういった。
「さあ、なんでも、先生に話してごらん。
話したいこと、ぜんぷ。」
つまり、たっぷり四時間、先生は、トットちゃんの話を聞いてくれたことになるのだった。
あとにも先にも、トットちゃんの話を、こんなにちゃんと聞いてくれた大人は、いなかった。
p36 お弁当
「学校じゅうで、五十人くらいなの?」
校長先生は、
「そうだ。」
と言った。
p43 電車の教室
こうして、九人の生徒が、トットちゃんの電車に乗りこんできて、それが、トモエ学園の、一年生全員だった。
そしてそれは、同じ電車で旅をする、仲間だった。
p46 授業
なにしろ、一時間目が始まるときに、その日、一日やる時間割りの、ぜんぶの科目の問題を先生が、黒板にいっぱい書いちゃって、
「さあ、どれでも好きなのから始めてください。」
といったんた。
だから生徒は、国語であろうと、算数であろうと、自分の好きなのから始めていっこうに、かまわないのだった。
この授業のやりかたは、上級になるにしたがって、その子どもの興味を持っているもの、興味の持ちかた、物の考えかた、そして、個性、といったものが、先生に、はっきりわかってくるから、先生にとって、生徒を知るうえで、なによりの勉強法だった。
また、生徒にとっても、好きな学科からやっていい、というのは、うれしいことだったし、きらいな学科にしても、学校が終わる時間までに、やればいいのだから、なんとか、やりくりできた。
したがって、自習の形式が多く、いよいよ、わからなくなってくると、先生のところに聞きに行くか、自分の席に先生にきていただいて、納得のいくまで、教えてもらう。
そして、例題をもらって、また自習に入る。
これはほんとうの勉強だった。
だから、先生の話や説明を、ボンヤリ聞くといったことは、ないにひとしかった。
p85 電車がくる
教室用の電車は、すでに、校庭に六台、並んでいたけれど、もう一台、くるという。
しかも、それは、「図書室用の電車」とミヨちゃんは、教えてくれた。
p130 リトミック
トモエは、ふつうの小学校と授業方法が変わっているほかに、音楽の時間が、とても多かった。
なかでも「リトミック」の時間は、毎日あった。
リトミックというのは、ダルクローズという人が考えた、特別のリズム教育で、この研究が発表されると、1905年(明治38年)ごろのことなんだけど、全ヨーロッパ、アメリカなどが、いち早く注目して、各国に、その養成所とか、研究所が、できたくらいだった。
校長の小林宗作先生は、トモエ学園を始める前に、外国では、子どもの教育を、どんなふうにやっているかを見るために、ヨーロッパに出発した。
そして、いろんな小学校を見学したり、教育者といわれる人たちの話を聞いたりしていた。
そんなとき、パリで、小林先生は、すばらしい作曲家でもあり、教育者でもあるダルクローズ、という人に出会い、このダルクローズが、長い間、
「どうしたら、音楽を耳でなく、“心で聞き、感じる”ということを子どもに教えられるだろうか。生気のない教育ではなく、動きのある生きている音楽を感じとってもらうには...。どうしたら子どもの感覚を目覚めさせるだろうか?」
ということを考えていて、ついに、子どもたちの、自由にとびはねるのを見ていて発見し、創作したリズム体操、「リトミック」というものがあることを知った。
そこで、小林先生は、パリのこのダルクローズの学校に一年以上も滞在して、リトミックを身につけた。
少し歴史的な話になるけれど、日本人で、このダルクローズの影響を受けた人は多く、山田耕筰をはじめ、モダンダンスの創始者石井漠、歌舞伎の二代目市川左団次、新劇運動の先駆者小山内薫、舞踊家伊藤道郎。
こういった人たちも、リトミックがあらゆる芸術の基礎である、ということで、ダルクローズに学んだ。
でも、このリトミックを、小学校の教育にとり入れてみようとしたのは、小林先生が初めてだった。
「リトミックって、どういうものですか?」
という質問に、小林先生は、こう答えた。
「リトミックは、体の機械組織を、さらに精巧にするための遊戯です。リトミックは、心に運転術を教える遊戯です。リトミックは、心と体に、リズムを理解させる遊戯です。リトミックを行うと、性格が、リズミカルになります。リズミカルな性格は美しく、強く、すなおに、自然の法則にしたがいます。」
まだ、いろいろあるけれど、とにかく、トットちゃんたちのクラスは、体にリズムを理解させることから始まった。
講堂の小さいステージの上のピアノを校長先生が弾く。
それに合わせて、生徒は、思い思いの場所から歩き始める。
どう歩いてもいいけど、人の流れに逆行して歩くと、ぶつかって、気持ちが悪いから、なんとなく、同じ方向に、つまり、輪になる形で、でも一列とかじゃなく、自由に流れるように歩くのだった。
そして、音楽を聴いて、それが”二拍子“だと思ったら、両手を大きく指揮者のように上下に二拍子に振りながら、歩く。
どっちかっていえば、「足の親指をひきずるように、体を楽に、自由にゆすれる形で、歩くのが、いい。」と先生はいった。
三拍子....
四拍子....
五拍子....
六拍子...
子どもの集中力とか、自分の、しっかりした意志なども養うことができる、と校長先生は考えたようだった。
さて、先生が叫ぶ。
「いいよ!」
生徒は、「ああ、うれしい...。」と思って、すぐに三拍子にするのだけど、このときに、まごついてはダメ、瞬間的に、さっきの二拍子を忘れて、頭の命令を体で、つまり筋肉の実行に移し、三拍子のリズムに順応しなければ、いけない、と思ったとたんに、ピアノは、五拍子になる、というぐあいだった。
初めは、手も足も、めちゃくちゃだったり、口々に、
「先生、待ってよ、待ってよ。」
とかいいながら、ウンウンやったけど、なれてくると、とても気持ちがよく、自分でも、いろんなことを考え出してやれることもあって、楽しみだった。
たいがいは、流れの中で一人でやるんだけど、気がむいたときは、だれかと並んでやったり、二拍子のときだけ、片手をつないだままやったり、目をつぶってやってみたり。
ただ、しゃべることは、よくないとされていた。
ママたちも、たまに父兄会のときなんかに、そーっと外から見ることもあったけど、子どもたちそれぞれ、その子らしい表情で、のびのびと手足を動かし、いかにも気持ちよさそうに、飛びはねて、しかも、リズムに、きっちり、合っている、という光景は、いいものだった。
リトミックは、こんなふうに、体と心にリズムを理解させることから始まり、これが、精神と肉体との調和を助け、やがては、想像力を醒まし、想像力を発達させるようになればいい、という考えのものだった。
だから、初めての日、トットちゃんが、学校の門のところで、ママに、
「トモエって、なあに?」
と聞こうとしたけど、この学校の「トモエ」、というのは、白と黒からできている紋所の一種の二つ巴で子どもたちの心身両面の発達と調和をねがう、校長先生の心のあらわれだった。
(映画では、校舎の壁の一番上にこのマークがあります。)
リトミックの種類は、まだたくさんあったけど、とにかく、校長先生は、子どもたちの、生まれつき持っている素質を、どう、まわりの大人たちが、そこなわないで、大きくしてやれるか、ということを、いつも考えていた。
だから、このリトミックにしても、
「文字と言葉に頼りすぎた現代の教育は、子どもたちに、自然を心で見、神のささやきを聞き、霊感に触れるというような、官能を衰退させたのではなかろうか?
古池や 蛙とびこむ 水の音...池の中に蛙がとびこむ現象を見たものは、芭蕉のみでは、なかったろうに。
湯気たぎる鉄瓶を見た者、りんごの落ちるのを見た者は、古今東西において、ワット一人、ニュートン一人というわけで、あるまいに。
世に恐るべきものは、目あれど美を知らず、耳あれど楽(がく)を聞かず、心あれども真を解せず、感激せざれば、燃えもせず...の類いである。」
などと嘆いていた校長先生が、きっと、いい結果を生むにちがいないと授業に入れたものだった。
そして、トットちゃんは、イサドラ=ダンカンふうに、はだして走りまわり、飛びまわって、それが、授業だなんて、すごくうれしいと思っていた。
p156 「それからさあー」
このあいだ、校長先生が
「みんな、もっと話が上手になったほうが、いいな。
どうだい、今度から、お弁当のとき、みんなが食べてる間、毎日、ちがうだれかさんが、ひとり、みんなの輪のまん中に入って、お話する、ってのは?」
校長先生は、自分の外国生活の経験から、ふつう、日本では「ご飯ときは、だまってたべなさい。」と家でいわれている子どもたちに、
「食事というのは、できるだけ楽しく、だから、急いで食べないで、時間をかけて、お弁当の時間には、いろんな話をしながら食べていい。」といつも言っていた。
そして、もうひとつ、
(これからの子どもは、人の前に出て、自分の考えを、はっきりと自由に、はずかしがらずに表現できるようになることが、絶対に必要だ。)
と考えていたから、そろそろ始めてみよう、と決めたのだった。
「いいかい。
上手にお話しようとか、そんなふうに思わなくていいんだよ。
そして話も、自分のしたいこと、何でもいいからね。
とにかく、やってみようじゃないか?」
ある日、絶対に順番がきても、
は「しない。」といいはる子がいた。
「話は、なんにもない!」
校長先生は、
「ハ、ハ、ハ、ハ。」
と、歯のぬけているのを気にしないで笑って、それからいった。
「じゃ、作ろうじゃないか!」
「作るの?」
その子は、びっくりしたようにいった。
p211 図書室
毎日、自分の好きな科目から勉強してよくて、
『“人の声がうるさいと、自分の勉強ができない”というようじゃこまる。
どんなに、まわりが、うるさくても、すぐ集中できるように!』
というふうに教育されているトモエの子にとっては、この~マールコテンもべつに気にならず、いっしょに同調してうたっている子もいたけれど、みんな自分の本に、熱中していた。
p219 しっぽ
トットちゃんは、体には、なんの障害もなかった。
だから、「しっぽがあるか?」と聞かれても、平気だった。
でも高橋君は、背がのびない体質で、自分でも、もう、それを知っていた。
だから、校長先生は、運動会でも、高橋君が勝つような競技を考えたり、体の障害という羞恥心をなくすために、みんな海水着なしで、プールに一緒に入るように考えたり、とにかく、高橋君や、泰明ちゃんや、そのほか、肉体的な障害のある子から、そのコンプレックスや、「ほかの子より劣っている」という考えを取るために、できるだけのことをしていたし、事実、みんな、コンプレックスを持っていなかった。
それなのに、いくら、かわいく見えたからといって、よりによって高橋君に、「しっぽがあるんじゃない?」というようにな不用意な発言は、校長先生には、考えられないことだった。
p221 二度めの春
前の学校で、「もてあましもの」として退学になったトットちゃんが、いまは、もっとも、トモエの生徒らしいように育っていた。
でも、「トモエの生徒らしい...。」これは、ある点、親にとっては、心配でもあった。
校長先生に、すべての面で、子どもをあずけ、信頼しているトットちゃんのパパとママですら、たまには、(大丈夫かな?)と思うことがあった。
小林先生の教育方針を半信半疑で見て、現在のことだけで、すべてを決めようとする親のなかには、
(これ以上、子どもをあずけておいては、たいへん!!)
と考えて、よその学校に転校させる手続きをする人もいた。
p229 畠の先生
校長先生は、お百姓さん先生の隣にならぶと、いった。
「いや、これから、畠の作りかたを、あなたに教えてもらうのだから。
畠のことについては、あなたは先生です。
パンの作りかたを習うときには、パン屋さんに先生になってもらうのと同じです。
さあ、どんどん、子どもたちに指図して始めてください。」
きっと、ふつうの小学校では、生徒に、なにかを教える人には、「先生の資格」とか、いろいろ規則があるだろうけど、小林先生は、かまわなかった。
子どもたちに、「本物」を見せることが必要なのだし、それが、大切なことだ、と先生は考えていた。
p243 「ほんとうは、いい子なんだよ。」
校長先生は、トットちゃんを見かけると、いつも、いった。
「君は、ほんとうは、いい子なんだよ!」
そのたびにトットちゃんは、ニッコリして、とびはねながら答えた。
「そうです、わたしは、いい子です!」
そして、自分でもいい子だと思っていた。
「いい子じゃないと、君は、人に思われているところが、いろいろあるけど、君のほんとうの性格は悪くなくて、いいところがあって、校長先生には、それが、よくわかっているんだよ。」
校長の小林は、こうトットちゃんに伝えたかったにちがいなかった。
残念だけど、トットちゃんが、このほんとうの意味がわかったのは、何十年もたってからのことだった。
でも、ほんとうの意味は、わからなくても、トットちゃんの心の中に
「わたしは、いい子なんだ。」
という自信をつけてくれたのは、事実だった。
だって、いつも、なにかやるとき、この先生の言葉を思い出していたんだから。
ただ、やったあとで、「あれ?」と思うことは、ときどき、あったんだけど。
p287 はくぼく
トモエの生徒は、よその家やへいや、道に、落書きをする、ということがなかった。
というのは、そういうことは、もう充分に学校の中でやっているからだった。
ところで、この音符のあと、掃除が、かなり、たいへんだった。
こんなわけで、トモエのみんなは、「落書きや、いたずら書きをしたら、あとがたいへん!」と知っていたから、講堂の床以外では、しなかったし、だいいちに、一週間に、二度くらいある、この授業で、落書きの楽しみは、もう充分に満たされていた。
p296 スパイ
「泰明ちゃんがいない。」
ということが、どうしても、目で見えてしまうからだった。
でも、せめてもの救いは、みんなのすわる席が決まっていないことだった。
もし、泰明ちゃんの席が決まっていて、そこが、いつまでも空いているとしたら、それは、とても、つらいことだったにちがいない。
p312 ロッキーがいなくなった
小林先生は、いつも、トモエの生徒に、いっていた。
「動物を、だましちゃ、いけないよ。
君たちを信じている動物を、裏切るようなことを、しちゃ、かわいそうだからね。
犬なんかに、”お手をしたらお菓子をやるよ。”なんて、いって、お手をさせて、なにもやらなかったりするなよ。
犬は、君たちを信じなくなるし、性格が悪くなるからね。」
p328 あとがき
この中に書いたことは、どれも作りものじゃなく、実際にあったことでした。
小林先生の教育方針は、この本にもかきましたが、つねに、
「どんな子も、生まれたときには、いい性質を持っている。
それが大きくなる間に、いろいろな、まわりの環境とか、大人たちの影響で、スポイルされてしまう。
だから、早く、この『いい性質』を見つけて、それをのばしていき、個性のある人間にしていこう。」
というのでした。
また、先生は、自然が好きでした。
子どもたちの性格も、できるだけ自然であること、と考えてらしたようですが、実際の自然も好きで、末娘のミヨちゃんの話によると、小さいとき、いつも、
「自然の中のリズムを見つけよう。」
という先生に連れられて散歩に出かけたのだそうです。
先生は、そういうとき、いつも、大きな木のところに行って、風があたったときの木の葉や、木の枝のゆれかた、そして、一つの枝を見ると、つぎは、その上の枝と、そね葉っぱ。
また、みきとの関係。
風の強さと弱さで、葉っぱのゆれかたは、どんなに違うか...。
そういうことを、じーっと観察し、風が吹かなければ、いつまでも、上をむいて、立っていた、ということでした。
これは、木だけではなく、川でも同じことで、近くの多摩川に出かけては、川の流れを見て、あきることがなかったそうです。
ここで私は、私の母に、心からの感謝を伝えたいと思います。
それは、
「退学になった」
という事実を、私が二十歳すぎまで話さないでくれた、ということです。
もし、あの一年生のとき、
「どうするの?
あなた、もう退学になっちゃって!
つぎの学校に入ったって、もし、また退学にでもなったら、もう行くところなんか、ありませんからね!!」
もし、こんなふうに母にいわれたとしたら、私は、どんなに、みじめな、オドオドした気持ちで、トモエの門を、あの初めての日に、くぐったことでしょう。
そうしたら、あの、根の生えた門も、電車の教室も、あんなに、楽しくは見えなかったにちがいありません。
こういう母に育てられたことも私は幸せでした。
でも、とにかく、こういう、トットちゃんみたいな女の子でも、まわりの大人のやりかたによって、なんとか、みんなとやっていける人間になれる、ということを知っていただけたら、と思っているのです。
そして、もし、今でもトモエがあったら、
「登校拒否する子なんて、一人もいないだろうな。」
と考えます。
だって、トモエでは、みんな学校が終わっても、放課後、家に帰りたくないぐらいだったんですから。
そして、つぎの朝は、早く学校に行きたくて、待ちきれないくらいだったんです。
トモエというのは、そういう学校でした。
高橋くん
「肉体的なハンディキャップによるコンプレックスを、ほんとうに持っていない。」
ミヨちゃん
校長先生の三女のミヨちゃんは、国立音楽大学の教育科を卒業。
現在、国立音楽大学付属小学校の講師で、「音楽」を教えています。
サッコちゃん
当時、女の子にとって、もっともむずかしい学校のひとつ、都立第六高女にらくらくパス。
続いては東京女子大の英文科に。
卒業後は、お茶の水YWCAの小学生の英語教師を。
泰ちゃん
いま日本を代表する物理学者となりました。
アメリカに住んでいますが、いわゆる「頭脳流出」といわれる一人です。
また泰ちゃんは、最近、コロンビア大学の教授と共同で、「ウプシロン」というものを発見し、人によっては、「ノーベル賞!」と思ったくらいでした。
大栄くん
現在、日本有数の「東洋蘭の目きき」です。
天寺くん
日大の獣医専門学校から、百八十度の転換をして、慶応病院につとめ、現在は、自衛隊の中央病院で、臨床検査という仕事に全力を注いでいます。
税所さん
東郷元帥が大叔父さまにあたる税所さんは、青山学院の小学部から、途中でトモエに入ってきました。
右田昭一君
武蔵野美術大学のデザイン科に入りなおし卒業。
現在、グラフィックデザインの会社を、友だちと作ってがんばっつまいます。
青木恵子ちゃん
慶応義塾の幼稚舎の先生との結婚生活、なんと銀婚式を過ぎる!
渡辺義治君
神奈川大学を卒業のあと、サラリーマンに。
小林宗作
明治二十六年六月十八日、群馬県吾妻郡に生まれる。
小さいときから音楽が好きで、榛名山の見える家の前の川のほとりで、いつも、指揮棒を振って遊んでいたという。
六人兄姉の豊かではない農家の末っ子だったので、小学校を卒業すると、すぐ代用教員となり、検定試験で教員の免許をとる(小学校を出ただけで、検定試験に受かる、というのは、よほど優秀だったにちがいないと思います。)
中村春二の教育方針が、小林先生に大きな影響をあたえる。
中村春二は素晴らしい人で、
「教育は、どうしても小学校から、やらなければ!」
という考えを持っていて、生徒の数は絶対に一クラス多くても三十人。
そして自由な教育、子どもの個性尊重に徹する教育方針をうちだした。
たとえば、勉強は午前中で終わり、午後は散歩とか、植物採集、写生、先生の話を聞く、歌をうたう、といったように、後年、トモエで小林先生が実行したような授業方法だった。
第一回のヨーロッパ留学に出発する。
大正十二年、先生が三十歳のときでした。
それから「リトミック」の章で書いたように、世界中に大きな影響をあたえたダルクローズのパリの学校で直接ダルクローズから学び、そのほか、いろいろの学校などを見て歩き、2年後、日本に帰ってくる。
帰るとすぐ、小林先生のようじに全面的に共鳴した、小原国芳と、成城幼稚園を創る。
のちに、小原先生は玉川学園を創り、小林先生は、トモエを創ることになるのですが。
この幼稚園で小林先生は、
「子どもを先生の計画に、はめるな。
自然の中に放り出しておけ。
先生の計画より子どもの夢のほうが、ずっと大きい。」
と、保育の先生にいいわたし、小林先生は、従来の幼稚園とまったくちがった幼稚園を、ここに作った。
昭和五年、小林先生は、二回めのヨーロッパに出発する。
実際に教えてみて、もう一度、リトミックを勉強する必要があると思ったので、ダルクローズのところへふたたび。
それからいろいろ視察し、本格的に自分の学校を創ることを決め、一年後に帰国。
昭和十二年、トモエ幼稚園とトモエ学園(小学校)を創立する。
日本リトミック協会も設立した。
「小林宗作というすばらしい教育者がいた。」ということを聞き、その人がどんなふうに教え、また、どんな人だったのかを、どうしても知りたくて、この十年間、国立の関係のかたとか、いろいろ話を聞き、ずいぶん、研究をしてきました。
その女の人は、小林先生から、こんなふうにいわれたと、佐野さんにいいました。
「君、子どもは、そんなふうには歩かないんだよ。」
つまり、子どもの呼吸が、わかっていない!と小林先生は注意したのです。
「窓ぎわ」という題名にしたのは、これを書き始めたころ、「窓ぎわ族」という言葉が、流行しました。
なんとなく疎外されている。
もはや第一線ではない。
そういう響きが、そこにありました。
私はチンドン屋さんを待つために、いつも窓ぎわにいました。
どことなく疎外感も、初めの学校では感じていました。
そんなわけで、こういう題名にしたのです。
この美しくかわいい絵の作者、いわさきちひろさんに感謝します。
ご存知のように、ちひろさんは、子どもの絵の天才でした。
子どもなら、どんなポーズでも、また、六ヶ月の赤ちゃんと九か月の赤ちゃんを、ちひろさんは描きわけられたのです。
1981年ーーー中学の卒業式に、先生に暴力をふるう子がいるといけない、ということで、警察官が学校に入る、というニュースのあった日。
(おわり)
以上です。😊
長文になりましたが、これでもごく一部です。
本当に素晴らしい本です!!
ぜひ全文を読んでみてください。😊