がんの人がいたら、この本を読んでみてください。
こちらの本から抜擢させていただきます。😊
P80
第2章 私のがん克服体験記
『私、生きています。生還しました!』 千田伸子
◎50歳になった矢先▪▪▪▪▪
父が亡くなったのは私が短大生だった時です。49歳でした。まだまだ生きてほしかった。その時、ふと、「49」という数字はいやだなという思いがよぎったものです。
16年前のこと、夫の姉がある朝突然頭が痛いと訴え、病院へ行ったものの、その日のうちに亡くなってしまいました。
義姉も49歳でした。あまりの突然の死に、だれもが途方にくれました。私の子どもたちから思わず出た言葉は「おじちゃんにもあっとかないかんね」でした。私に5つ下の弟がいたからです。子ども心に「何が起こるかわからない」と思ったのでしょう。
その後、子どもたちの心配が本当になってしまいました。義姉が亡くなって2ヶ月後、弟が交通事故で亡くなったのです。まだ幼子がいる38才という若さでした。無念の死で言葉も出ず悲しみにくれました。
3人の身近な人の死、それもあまりに若い死、突然の死を目の当たりにして私の日常は変わりました。1日をより大事にし、「明日何が起きてもいい」という気持ちで過ごすようになりました。やりたいことや行ってみたい所、食べたいものなど、すぐに行動に移しました。
映画が大好きなので月に20本以上観て、1日3本はしごするのも日常になりました。興味があった演劇もただ鑑賞するだけでなく、少し女優の道に入り舞台に立ちました。趣味の登山では、日本百名山をめざして、いくつも登頂しました。頂上からの素晴らしい景色に何度も感銘を受けました。
そんな日々を送っていたので、自分ががんと告知されてもショックはあまりなかったのです。49歳というどこか不安がよぎる1年が過ぎ、50歳になってホッとした矢先でした。今から10年前のことです。
そのこと、何をやってもなかなか痩せないなあと思っていたところ、職場の若い看護婦さんが「千田さん、昨日献血に行ってきたよ。えらいでしょ」と言います。そこで私は「その手があった!私も血を抜いてもらって少しでも体重を減らそう」とそんな浅はかな気持ちで献血に行きました。すると看護婦さんに「千田さん、すごい貧血です。取るどころか血を入れなきゃいけない状態です」と言われてしまいました。たしかに思いあたることがありました。地下鉄の階段は動悸、息切れがして一気に登れません。途中で休憩していると、私の横を高齢者の方が追い抜いて行くのです。趣味の登山でもどんどん後から来る人に抜かされ、途方にくれたりしました。職場でも時々立ちくらみがしていましたが、健康だけが取り柄だったので、更年期障害だろうぐらいに思っていたのです。
すぐに病院に行くように言われ、近くの内科に行きました。そこで詳しい血液検査、便検査をしたのですが、異常はないということで鉄剤が処方されました。家でも鉄分の多い食事にし、鉄剤を飲み続けましたが貧血は治らず6ヶ月が過ぎました。
その頃から胃のあたりがしくしく痛む症状が出てきました。30代後半で十二指腸潰瘍をやったことがあり、その時の痛みと似ていたので、またできたのかなと今度は胃腸科に行き胃カメラ検査を受けました。すると、やはり十二指腸潰瘍ができていました。貧血の原因はこれだったんだと納得し、潰瘍の薬を飲みましたが一向に胃の辺りの痛みは治りません。医師もこの薬で治らない人はほとんどいないと言います。「私は体の中で何かが起こっている」と感じ、自らCTを撮ってくださいと頼みました。
CTを撮ってみると影が見つかり、大腸の内視鏡検査をすることになりました。有名な病院で検査の予約を頼んだところ1カ月半待ちでした。検査なら近くの病院でもいいや、何かあったら紹介状を書いてもらおうと近所の比較的大きな病院で検査を受けました。
検査の結果、医師から「こんな大きいできもんができてる。がんです。すでに3期のBです。すぐに手術をしましょう。4日後の〇〇日です」と告知されました。
4日後に開腹手術にて上行結腸を25cm程切除しました。術後、医師に「思ったよりもひどかった。結腸とリンパ節も3群まで取りました」と説明を受け、これは転移もまぬがれないという思いで抗がん剤も素直に始めたところ、血液検査でCPKの数値があまりに高く、医師も驚き、中止しましょうということになりました。
今思うと、がん専門の病院ではなかったから、手術もすぐに手術できたし、抗がん剤も中止となり命が救われたと思います。何が幸いするかわからないと感じました。
◎不信▪▪▪▪▪、自分の身は自分で守らなければ
病気になってから、いろいろな本を読みあさりました。すると、抗がん剤を肯定する医師否定する医師さまざまで、とまどうばかりでした。
手術を終えて退院してから1カ月後、強い腹痛が出て、緊急で病院に駆け込むと、「便が詰まっているのでしょう。まあ念のために写真をとっておきますね」と医師。
(そんな痛みじゃないけどな~)
と思いながらレントゲンを撮りました。結果は腸閉塞を起こしていて、すぐに入院。医師の顔がみるみる変わる様子を鮮明に覚えています。発見が早かったので開腹手術せずに2習慣の点滴治療ですみました。ただの便秘と診断されていたら、腹膜炎を起こして大変なことになったのではと思います。自分の症状をきちんと伝えることの大事さを改めて感じました。
退院してから数ヵ月後、今度はすごい倦怠感、この時も「体の中で何かが起こっている」と感じ病院へ行きました。しかし医師は「血液検査も尿検査も異常ないから大丈夫」と言うのです。それだけだったら「ああ、良かった」とすんなり受け入れたと思います。ところがその医師は看護婦さんを呼び止め、「この人、今日血液検査をやったから次回はしなくていいから」と言うのです。それを聞いて私は不信感でいっぱいになりました。
友人のすすめもあり、がん専門の大病院に変わりました。手術が終わっているということで薬物療法部へ回されました。担当の医師は日本で5本の指に入ると言われる名医でした。紹介状を見るなり「抗がん剤が少な過ぎる!」。それが第一声でした。今後この病院でみてもらうということで、また一から検査が始まりました。
血液検査、超音波検査、CT検査をしていくと肝臓に転移しているのが発見。私はショックや驚きよりも「やっぱり」という思いでした。自分の体は自分が一番わかります。尋常じゃない体のだるさでしたから。今なら手術できるということで、薬物療法部から肝臓外科にまわされました。
まず血管塞栓術が行われました。これは3分の1残す肝臓に栄養が行くように、切除する3分の2の肝臓の方の血流を止める処置です。前処置と簡単に考えていたら、局部麻酔での3時間は本当に辛いものでした。血管一本一本に薬を注入していくのですが、その都度かなり痛みがともなうのです。
(お願いだからもうやめて~)
と心の中で叫んでいました。
1カ月後、本来の肝臓葉切除(肝臓を3分の2切除する手術)が行われました。
5時間かかった手術。命に影響がなかったものの、術後の痛みを緩和するための硬膜外麻酔が入らなかったので術後は散々でした。普通なら注入されている管から痛み止めの薬が入りますが、私の場合は痛みの都度、痛み止の点滴を受けていました。効くまでに時間がかかるので、すごく辛かったのです。麻酔師に挨拶をしても、無言のまま下を向いていたことが印象に残っています。
入院中、数種類の点滴を受けました。その中に私の✋に合わない点滴があり、ひどい吐き気をもよおしたり、心臓があぶりだしたりするのです。
夜中にその発作症状が起きた時は死ぬ思いでした。自信たっぷりだった担当医師も困惑し、たじたじでした。それでもマニュアル通りに進めていく毎日。私は末恐ろしさを実感し、自分で薬剤をチェックして訴えました。
「この点滴は私に合わないのでやめて下さい」
自分の体は自分で守らなければ▪▪▪▪▪と。
がんが転移しており、医師からは「末期です」と告知されました。その転移もあまりに早かったので、私は死を覚悟せざるを得ませんでした。
そんな矢先、病院の売店で「いずみの会」の前会長が書かれた『論より証拠のがん克服術』に出会い、希望を見つけたような気がしました。
「がんは生活習慣病であるから三大治療のみに頼らず、体質改善により自分で治すことができる。」
この本から、末期がんの人でも長く生きられている方が多いことを知り、ひょっとしたら私もいきられるかもしれない▪▪▪▪▪と思ったのです。
今でも不思議に思うのは、なぜあの本が、がん専門の病院の売店にあったのか。もっと早くこの本を知っていたら、大腸はやむおえなかったけど、肝臓の手術は拒否していたかもしれないと思いました。
今回はできるだけ三大治療は避けたいと思い、抗がん剤の話が出たら、それだけは断ろうとあれこれ考えていましたが、主治医は何も言ってきません。薬物療法部の有名な医師は「やらなきゃいけない」と言っていたのに、とうとう退院まで話はありませんでした。
言われないと反対にだんだん不安になり、退院してから検診の時にこちらから聞きました。
「先生、私、抗がん剤やらなくてよかったんですか?」。
すると医師はカルテをめくりながら「あれ、君中止になったんだね」としどろもどろ。最初の病院の紹介状の中止を見ての判断だったようで、薬物療法部の医師からの意見は伝わってなかったようです。
こんな一件で、私は抗がん剤治療を受けずにすみ、救われたと思っています。
◎「生きられる!」と確信が
退院してすぐに「いずみの会」に入会しました。入ってみると本にかかれたとおり、みなさんお元気でした。特に末期がんから生還した先輩たちのアドバイスが、肉親よりもあたたかく力強く感じられました。親身になってもらえ、改めて「生きられる」と確信をもてました。
まず、松井病院の食養内科へ入院して体質改善について学び、それから自分にとってやれる範囲で取り組みます。2カ月に1回開かれる定例会では、毎回いろいろな先生方の講演が聞け、生きていく上ですごく参考になりました。
中でも「整膚」に出会えたことは私にとってすごく良かったと思います。末期と宣言されてから、もう看護師にはもどれないと思っていたところ、整膚なら指先だけの施術だし、これなら体に負担もなく私にもできると思ったのです。
「整膚」の良さは相手に喜ばれ、施術する自分も体がポカポカして元気になるということ。癒しにもなり痛みの緩和にもなるということでした。
体質改善と整膚のおかげで末期の宣言を受けてから10年、あきらめていた看護師にも復帰し、今は常勤で働いています。
日赤病院で以前働いていた知人の看護婦さんがたちも私の元気な姿に「100人、200人とがんで亡くなっていく患者さんを見ていただけに信じられない!カルチャーショックです」と言われました。
「病気は医師にまかせても十把一絡げの扱いしかされない」ということを実感しただけに、がんの末期から生還した先輩たちのいろいろなアドバイスのありがたさ、がん仲間との交流は私にとって本当によかったと思っています。
◎日ごろ心がけていること
私はつね日ごろ、前向きになる本を読んでいます。また行ける範囲でいろいろな先生の講演を聞きに行っています。朝目が覚めると「今日も素晴らし日になります」と言ってから起きます。時間がある時は瞑想します。それから人参ジュースをコップ2分の1ほど飲みます。玄米菜食のはゴマと小松菜は欠かしません。
そして朝8時までに散歩に出て、太陽の光を浴びます。目をつぶるとオレンジ色に見え、あたたかみを感じるので、そこで「ありがとうございます。今日もパワーを下さい」とお願いします。そして景色を見ながら、ゆっくり歩きますが、時々目をつむり、小鳥のさえずりを意識して聞いたり、風を肌で感じたりと五感に刺激を与えます。また、ゆっくり腹式呼吸をします。その後、空の様子をしっかりながめ、亡くなった友人、知人に話しかけています。
仕事から帰ると🛀でゆっくり湯船につかり、お腹中心に自分で整膚します。寝るときには「今日も一日ありがとうございました」と言い、生かされていることに感謝します。がん発覚後3年ほど尿療法を行いました。最初、それだけはできないと拒んでいましたが、子どもの友達の母親が卵巣がんで腹水がたまり、カエルのようなお腹になりすごく辛そうでした。飲尿療法は腹水に効くと聞いて、その友人は「私やってみる」と言い出しました。それを聞いて「じゃあ私もやってみる」と決心がつきました。友人も一緒なら心強いと思ったからです。実際飲んでみると、臭いもなくサラーッといけました。一度決断するとすんなり毎日飲めます。これは伊井なと思ったのは、前日の食事の反省ができること。いい食事をした時の尿はとても飲みやすいのです。それから肌にうるおいがもて、きれいになることです。結膜炎ができた時や、口内炎ができた時などにすごく効き目を感じます。
もう一つ特に意識しているのが「言葉」です。笑顔で「ありがとう」「感謝しています」「うれしい」「楽しい」など、良い言葉を常に発します。本を読んでいると「思わなくてもいいから、良い言葉を言い続けなさい」と書いてあります。半信半疑で実践していた所々言い続けていると「たしかにそうだな」と思え、感謝の気持ちがわいてきます。
◎医者との賢いつきあい方
これは「いずみの会」の旅行で同室だった方の話です。私と同じ大腸がんで肝臓に転移した方でした。感じがよく明るい方で、すぐに意気投合しました。ずっとしゃべり続け、心身ともに「がん友」になりました。
それが数ヵ月後からぱったり患者会に来られなくなり、気になって自宅に電話しました。するとご主人が出られて「妻は亡くなりました」と言われました。
びっくりしてくわしく聞くと、「妻は抗がん剤はやりたくないとしきりに言っていたのに、僕と子どもたちで、頼むからやってくれと頼んだんです。それがこの結果です。あんなに元気だったのに悔やまれます。いずみの会の言っていたことが正しかったのです。みなさんにお伝えく下さい」とおっしゃいました。
千代美さんは心のやさしい方だったので、家族に言われ続けると、
(きっと、自分がわがままを言っているのだ▪▪▪▪▪)
と思えてきたのではないでしょうか。でも結果は家族をこんなにも後悔させることになりました。こんなにも悲しませることになりました。
三大治療によってがんを克服する方もたくさんいますが、そこにリスクを伴うことを忘れてはいけないーーー、これからもそのことを伝えていきたいと思います。
私の場合ですと、大腸がんが発覚した時、肝臓にも実は影が見られました。そこで検査技師さんたちが一生懸命調べて下さり、結果は血腫だったので「よかったね」と言われたことを覚えています。でも大腸癌手術後4カ月で転移が発覚しました。きっと大腸癌手術によって血腫だったものが、一気にがん化したのではないかと思えてなりません。
肝臓がんが発覚した時、「それは血腫です。前の病院の技師さんたちが何度も調べてくれて血腫だと言われたんです」と言い張ったことを覚えています。そして数人のドクターがバタバタと動き、やはりがんと診断されました。きっと困った患者だったことでしょう。
私は40代の時に子宮筋腫の手術をしています。
手術前に医師と話している時にカルテが見え「子宮全摘」って書いてありびっくり!
筋腫だけ取ると思っていたので、医師に「子宮全部取っちゃうんですか?」と聞いたところ、「もういいでしょう」と言われたのです。
その言葉を聞いた時、一瞬言葉が出ませんでした。でもその頃の私は医師に反抗できず、言われるまま子宮を全摘しました。
数年後、私は産婦人科に就職しました。その経緯を院長に話すと、「千田さん、40代だったらなぜ閉経まで待てなかったの?子宮はなるべく取らない方がいい」と言われました。
私は(しまった、セカンドオピニオン受ければ良かった▪▪▪▪▪)と深く後悔しました。
今思うと、私ががんになった一番の原因は、三大治療の一つである手術、子宮全摘だったのではと思えます。
現在は半年に1回血液検査とCT検査をしています。いつも思うのが、原発部位は大腸なのにCTは肝臓しか撮りません。初めの頃は「大腸も撮って下さい」と訴えていましたが、最近は毎度のことだし(まあ余分に被爆しなくてもいいか▪▪▪▪▪)と思えてきました。
ただ、診察の時くらい「お腹の調子はどうですか?」「便の調子いいですか?」など聞いてもいいのではと思います。大腸検査のことすら言われませんし、すすめられません。この主治医は専門の部位しか見ないんだなとあきれています。
医師は、すぐに切りたがります。
医師は、患者一人ひとりの症状などかまわないでマニュアル通りに進めていきます。
医師は、体全体を見ないでがんだけを、また自分の専門部位だけしか見ません。
私が感じたことです。
以上です。
どうぞご参考に。😊
遠隔浄化は、痛みや不調を浄化しています。浄化しても良くならない場合は、コミュニケーションしていきます。
気づきが必要だからです。
なぜその痛みや不調があるのかに気づくことがとても大事だからです。
癌になるまでには、痛みや不調があったはずです。
「なんだか、怠さがずっととれないな」とか、「お腹がずっと痛いな」とか....
忙しすぎたり、好い人すぎたり、自分以外の人の意見を優先していたりすると、ついつい自分のことを後回しにしていたりします。
どうぞできるだけ早いうちにご依頼ください。
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神田