昨年2017年に105才と10ヶ月生きて、日野原重明先生が旅立たれました。
日野原先生の本を何冊か読む中に、「大切なことは目に見えないんだよ」という文章が「星の王子さま」という本の中に出てくることを書いておられ、1年程前に「星の王子さま」の本を買いました。
とても面白い‼️
とても興味深いお話しです。
150ページ位ですから、あっという間に読めます。
大人の絵本のようでもあり、とてもとても深い素晴らしいお話しです。
何回読んだでしょうか、たまに思い出してページをめくる、その度に新しい発見があり、感動しています。✨
多くの人が翻訳をされています。
私が買ったのは、菅啓次郎さんの翻訳です。
訳者あとがきから抜粋させていただきます。
物語を読む時の唯一の約束、それはそこに書かれたことが「すべてほんとうにあったのだ」と考えることではないでしょうか。
たったひとりで乗っていた飛行機が砂漠に不時着し、誰の助けもあてにできない状況に置かれた「ぼく」の目の前に、突然そんなところにいるはずのない少年が現れて、ふたりの会話がはじまる。
そんな子いるはずがないよ、ばかばかしい、と思ってしまえば、それで話はおしまいです。
けれども、へえ、そういうこともあるかもしれない、その子はどんな話をしたの、何が好きだったの、いったい何を求めていたの、と身を乗り出すようにして「ぼく」の語りに耳をかたむけるとき、この不思議な友情の物語がその美しさとさびしさをいっぱいに輝かせはじめます。
「ぼく」の物語が「本当の話」だと証明できるものは、心に残された思い出以外何もない。
でもその彼の話を信じようと決意したときにはじめて、読者にも、見えるはずのないものが見えるようになるのでしょう。
ボアのボアのお腹の中のゾウをありありと見ていたこども時代の「ぼく」や、箱に入れられた羊のようすを外から見抜く不思議な男の子に、一歩近づくのだともいえます。
近づく?
いや、彼らのいる場所に帰ってゆくのだ、と作者は考えていたのかもしれません。
「こども」と「おとな」をはっきり対比するのが、この作品の考え方です。
こどもはおとなの現実世界とは違う、真実の世界に住んでいる。
社会生活が強いるばかげた型とは離れた場所にいて、大切なものを見抜く力をもち、ひたむきにそれに向かってゆく。
すべてが奪われた危険な状況で、砂漠の中の孤独というゼロ地点に置かれたとき、「ぼく」を支えることになったのは、いわばそんな「こども時代そのもの」がもつ強さ、その強さの思い出、その強さをふたたび取り戻そうとする決意でした。
星の輝きや水にも似たその強さ、ただし同時に小さくてもろく、いつ失われてもおかしくないはかなさをもった強さを体現するのが、砂漠で出会った謎の男の子だったわけです。
彼をぼくは「ちび王子」と呼ぶことにしました。
原題はLe Petit Princeですから、意味からいっても音の短さからいってもぴったりです。
ぼく自身は小学生のころ、ぼくの世代の多くの人とおなじく内藤濯訳『星の王子さま』としてこの物語に出会いその後大学になってから、こんどは学びたてのフランス語でそれを通読しました。
それからあっという間に三十年あまりが過ぎて、ほんとうに久しぶりに新しい気持ちでこの物語を読んだとき、以前とはまったく異なった、驚くべき王子の姿が見えてきました。
これは身寄りもなくひとりで別の土地に流れてきて路上生活を送る、移民のストリート·キッドの話じゃないか!
少年と出会ってつかの間の友情でむすばれた「ぼく」もまた、職業生活の中で大きな事故に見舞われ、宙ぶらりんのまま命の危険にさらされている。
そんなふたりが、少年のまだ短い人生の物語を共有しつつ、人間の世界と社会、生きることの意味と価値について思いをめぐらすのです。
そして最後には少年は死を通じての帰郷を選び、残された「ぼく」はもとの社会での生活へと帰還する。
それは残酷で、あまりにも悲しくさびしい、けれどもその核心にある何かのおかげで強く輝き、人に力を与えてもくれる、そんな話となりました。
それはもちろんこの短い小説が書かれた元来の文脈とはちがいます。
ニューヨークでの亡命生活で、戦時下にある遠い祖国フランスとそこに暮らす友人の苦境を思いながら書かれた原作は、しかし時代ごと状況ごとに新しい意味を帯ながら読み継がれてゆくことを、むしろ求めているのではないでしょうか。
サン=テグジュペリ自身が描いた愛らしい挿し絵のおかげでイメージが定まり、はっきり金髪であることが指定され、また「ぼく」が簡単に抱き抱えることができるという点から年齢は一桁と推定できるちび王子ですが、その心の動き、特に花に対する複雑な感情などは、ティーンエイジャーを思わせます。
立派なマントを着た絵がありますが、それは「ぼく」による「王子」の地位にふさわしい姿の想像であり、遍歴のちび王子はだぶだぶした緑色の奇妙な服に、いつも長い黄色のマフラーをしています。
文学の読者がいつもそうしているように、私たちはそんなちび王子に重ねて別の誰かの姿を見ることも許されるでしょう。
ぼくがはっきりイメージを重ねているのは、ロマの映画監督トニー·ガトリフが、ノーベル賞作家J·M·G·ルクレジオの短編を映画化した傑作『モンド』(1995)の主人公です。
どこからともなく風のようにやってきて南フランスの町に住み着いた、路上生活を送る孤児。
人々に愛され、野良犬のように追われ、ある日永遠に姿を消してしまう。
暗褐色の髪と瞳をした、そんなちび王子。
そしてちび王子はたぶんひとりではなく、読者の数だけのちび王子が生まれ、アラブ系だったり、ロマだったり、ブラック·アフリカ系やアジア系やポリネシア系だったり、さまざまな姿と表情とことば遣いと声と仕草をもち、年齢もある幅で変化しながら、彼らは集合体として、同時にあくまでも「ひとり」のちび王子として、失われがちなある価値と心の姿勢をもって、私たちを励まし、いつも連れそって歩いてくれるのです。
原作者の非常に興味深い生涯については、いまは簡単に調べることができるので、ここでは触れません。
まずはこの、ちょっと生意気なちびちゃんとして不意に現れた新しい王子の姿を楽しんでみてください。
愛する相手との、どうすることもできない離別を経験したことのあるすべての人に、この翻訳をささげます。
2011年、東日本大震災の40日後に。
訳者
以上です。
P115
「さよなら」ときつねがいった。「ぼくの秘密をいうよ。すごくかんたんなことだ。心で見なければ、よく見えないっていうこと。大切なことって、目には見えない」
「大切なことって目には見えない」とちび王子は、そのことばを忘れないようにくりかえした。
「きみがきみの薔薇のためだけに使った時間が、君の薔薇をあんなにもたいせつなものにするんだよ」
「おれがおれの薔薇のためだけに使った時間······」と忘れないようにちび王子はくりかえした。
「人間たちはこの真実を忘れてしまった」ときつねはいった。
「でも君は忘れてはいけないよ。きみはなつかせた相手に対しては、ずっと責任があるんだ。きみはきみの薔薇に対する責任がある·····」
「おれはおれの薔薇に対する責任がある·····」とちび王子はくりかえした、そのことばを忘れないように。
その時々の自分の立場や環境によって、年齢や経験によって、いろんな解釈の仕方がありますね。😊
そして、とても大事なことです。✨