9年くらい前、地元のデパートで美味いもの市みたいのがあって、京都の「イノダコーヒ」に派遣で仕事をさせていただいたことがあります。
その時、お客様から、「神様のカルテに載っていますよね。😊」と言われ、いつか読んでみたいと思っていましたが、いつの間にか忘れていました。
久しぶりに図書館に行って、ぷらぷらしていたら、「神様のカルテ」が目について、借りてみました。😊
小説を読むのは、久しぶりです。
著者の夏川草介はペンネームで、夏は夏目漱石、川は川端康成、草は漱石の草枕、介は芥川龍之介から。
信州大学医学部卒、長野県の病院にて地域医療に従事。本作で第十回小学館文庫小説賞を受賞し、デビュー。
地域医療の一端を担う規模の大きい病院「24時間365日対応」という看板を出しているせいで、3日寝ないことも日常茶飯事、自分が専門でない範囲の診療までおこなうのも普通という内科医夏川草介のお話です。
人生に大切なことを教えてくれる名言が詰まっています
検索していただくと、いっぱい出てくると思います。
こんなお医者さんが町にいたら、おじいちゃんおばあちゃんは幸せですね。😊
p166
「一に止まると書いて、正しいという意味だなんて、この年になるまで知りませんでした。でもなんだかわかるような気がします。人は生きていると、前へ前へという気持ちばかり急いて、どんどん大切なものを置き去りにしていくものでしょう。本当に正しいことというのは、一番初めの場所にあるのかもしれませんね」
p144
ふと思い出した。
子どものころに読んだ心に残る短編がある。
寺の山門で、仏師が仁王を彫る話である。
仏師は、実に無造作に鑿を使い、一打ちごとにたちまち眉が、たちまち鼻が浮かび現れる。
見物人がその手並みに驚嘆すると別の若者が次のようなことを言う。
「あれは木に仁王を彫りこむんじゃない。
最初から木の中に仁王が埋まっているのを掘り出すだけだから、容易なものなのだ。」と。
不思議なことを言う。
土に埋まった石を掘り出すようなものだから、間違えようもないのだと言う。
子ども心にも私は呆然として、のち何度も読み返したことを思い出す。
思えば私の仕事も同じようなものかもしれない。
点滴やら抗生剤やらを用いて、絶える命を引き伸ばしているなどと考えては傲慢だ。
もとより寿命なるものは人知の及ぶところではない。
…………..
土に埋もれた命を、掘り起こし光を当て、よりよい最後の時を作り出していく。
医師とはそういう存在ではないか。
いささか無力にすぎると言われるかもしれないが、私の中にその考えを力強く肯定する何者かがいることも事実だ。
p203
思えば人生なるものは、特別な技術やら才能やらをもって魔法のように作り出すものではない。
人が生まれおちたその足下の土くれの中に、最初から埋もれているのものではなかろうか。
私にとって、それは最先端の医療を学ぶことではなく、安曇さんのような人々と時間をすごすことであり、ひいては、細君とともにこの歩みを続けることだ。
当たり前のように、ずっと以前から結論はそこにあったのだ。
迷うた時にこそ立ち止まり、足下に槌をふるえばよい。
さすれば、自然そこから大切なものどもが顔を出す、
そんなわかりきったことを人が忘れてしまったのは、いつのころからであろうか。
足もとの宝に気づきもせず遠く遠くを眺めやり、前へ前へと進むことだけが正しいことと吹聴される世の中に、いつの間になったのであろう。
そうではあるまい。
惑い苦悩した時にこそ、立ち止まらねばならぬ。
川を堰きとめ山を切り崩して猛進するだけが人生ではない。
そこかしこに埋もれたる大切なものどもを、丁寧に丁寧に掘り起こしていゆくその積み重ねもまた人生なのだ。
この本の中には、「魂」という言葉は出てこないのですが、「魂」のことを言っているのだと思いました。
神様が与えてくださっている存在に気づくこと。
見えない世界があること。
心の声に耳を澄ますことが大事なこと。✨
そして最後は、クリスマス
p198
「今日は十二月二十四日です」
………………………..
「イエス▪キリストの誕生日の前日だな」
すごい、イエス▪キリストまで出てきた‼️
イエスは多くの人々を癒した遠隔浄化のマスターですからね。✨
夏川草介さんインタビュー記事から
・ケネディ大統領の演説の言葉「良心に恥じぬということだけが、我々の他しかな報酬である」という言葉が心に響き、それ以来生きていく中での自分の柱にしています。
・医師としての生活………自分の心が折れてきた時に、医療以外のことをやろうと妻が提案してくれたのです。その一つの選択肢が小説を書くこと。これこそ悲しみから回復するための過程でした。
いろんな人がいますね。😊
みんなちがってみんないい✨🎵🌍