「土の学校」木村秋則 生態系の一部である生き物を、人間の都合で、善と悪に分けてしまうことが、そもそもの間違いの始まりだと私は思います。ひとりひとりみんな違う。

「土の学校」木村秋則から、抜粋させていただきます。😊

p5

お前はどうしてあきらめないんだ?

畑が面白かったのです。

自然と向き合っていた。

最初は私も、誰にも負けないくらい沢山の農薬と肥料を使って、大きなピカピカのリンゴを育てていたのです。ところが私が無謀にも、リンゴの無農薬栽培に挑んだばっかりに、病気と害虫が蔓延し、リンゴの木は秋になる前に葉をほとんど失いました。

農薬を使わなくなってからの最初の約10年間は、そのせいで私の畑のリンゴの木は花を咲かせることさえできなくなりました。

無農薬のリンゴの作り方なんて本は、図書館や書店をどれだけ探してもありませんでした。

生まれたばかりの赤ん坊のように、自分を取り囲むすべてのものを私は夢中で見て、聞いて、匂いをかいで、触り続けました。

季節によって草の味が変わることを知ったのも、リンゴの葉を食べる害虫は平和な優しい顔をしているのに、その害虫を食べてくれる益虫が異獣みたいに恐い顔をしているのを知ったのも、あの頃のことです。

学校で学んだことの何十倍も、何百倍も大切なことを、私はあの畑で学んだのです。

その土が、不可能を可能にする方法を教えてくれたのです。

p16

地球というくらいで、私たちが住むこの星がそもそも土の塊なのだから、土は元々そこにあるものではないか。

毎年毎年、この木々の落とした枯れ葉が、森の底に降り積っていたのです。

土は生きています。土とは、そこに棲む生きとし生けるものすべての命の営みによって作られているものなのです。

p30

もしかしたらこの山の土が答えなんじゃないかと思って、夢中で掘りました。

土と生きる百姓としてはお恥ずかしい限りですが、そこで生まれて初めて、あ、土にも匂いがあるんだと思いました。

そして、この匂いのする土を作ればいいんだという答えに辿り着いたのです。

ただ直感的に、そう思ったのです。

良い土というものが具体的にどういうものなのか、自分の感覚を頼りに確かめられるようになりました。

それが、土の匂いだったのです。

p45

山の土は掘っても掘っても温かいのです。

山の土と畑の土の違いは、なんといっても温度です。山の土は掘っても温度がほとんど変わらず温かいのに、畑の土は掘っていくと温度が急激に下がってしまうのです。

山の土の温かいのは、おそらくは微生物の働きです。

p60

土は人間の食を生産する母体です。そこにはバクテリアだとか菌類だとか、無数の微生物が存在して人間の命を支えている。

その土の豊かさは肥料分ではなく、そこで活動している微生物と、植物の関係で決まるのではないかと私は思っています。

植物にとっての土中の微生物は、私たち人間にとっての腸内細菌のようなものだと私は思っています。

肥満になりやすい人は、ある種の腸内細菌が少ないということも、最近の研究でわかってきています。

p64

季節にもよりますが、現在の私の畑は、昔のように雑草がはびこっているわけではありません。何よりも畑に生える草の様子が、リンゴの花が初めて咲いたころとは、完全に別物になってしまったからです。

特に草刈りをやめた最初の頃は、毎年劇的と言ってもいいくらい大きく変わっていきました。去年生えていた草と、今年生えている草が、まったく違うというようなことが何年も続いたのです。

少なくとも7回、草たちの姿が大きく変わりました。

今でも少しずつ畑に生える草の様子は変化し続けていますが、あの頃のようなドラマティックな変化はありません。私の肩の高さほどあった草はどこかへ行ってしまいました。

草たちがこれだけ変わったからには、土中細菌の様相も大きく変わったに違いありません。

長年雑草を生やしてきたおかげで、私の畑の土の状態は安定していますから、少しくらい草を刈っても、昔のように土が硬くなることはありません。

p68

ただし大豆を植えるのは、慣行農法から自然栽培に移行したばかりの最初の何年間かだけです。

5年目に播いた大豆の根っこを見ると、根粒菌の粒がほとんどついていなかったからです。窒素がもう土中に行き渡ったサインだと解釈して、それ以降は大豆を播くのをやめました。

いったん土の中の微生物たちが正常に働き始めたら、もう大豆を播く必要はないのです。

畑で3年大豆を育てれば、その土には作物たちが健康に育つのに充分なだけの窒素が供給されることがわかってきたからです。

充分になればやめる。自然は無駄なことをしないのです。

p76

土の性格は、その場所によってみんな違う。

どこにどんな作物を植えるかで、収穫が大きく違ってしまうのですがすから。

農薬や化学肥料が広まってからは、そんなことを考える必要がなくなった。

百姓と土の長年にわたるつきあいに、ひびを入れたのが農薬や化学肥料ではないかと思うのです。

p77

私が小学生だった頃、日本の人口の約30%は農家でした。それが現在は2%にまで減ってしまいました。人の命をつなぐ食の生産を、全人口のたった2%が支えているのです。98%は、食べるだけです。

何よりも他ならぬこの私自身が、あのとき、誰かに農薬と肥料の使用をやめなさいと命じられたら、きっと私は怒ったでしょう。

農薬に限らず、仕事というものは、自分の信念と責任においてなべきものだと思います。

p86

福岡正信さん

私がリンゴの無農薬栽培に取り組むことになったのは、福岡さんの著書を読んだことがきっかけです。福岡さんの提唱された不耕起、無農薬、無肥料、無除草という考え方が、私の栽培法の出発点になっているのは間違いのない事実です。

私の栽培方法と福岡さんの農法は、まったく同じものではありません。ある意味では決定的に違うものです。

福岡さんは、私からすれば哲学者にちかい。

つまり真理を追求するための、ある意味での実験としての農業です。

けれで、私はあくまでも百姓です。作物を育てて生計を立て、家族を養うことができて初めて自分は百姓だと言えるのだと思っています。単に無農薬、無肥料で作物が作れればいいというわけではない。身も蓋もないことを言えは、それで家族を食べさせていけなければ、どんなに素晴らしいリンゴができても意味がないのです。

それにリンゴを育てて家族を養えるだけの収入が得られなければ、この栽培法が世の中に広まるとはとても思えないのです。

だから自然栽培では、「何もしない」なんてことはありません。

p89

健康な植物には、自分の力で病気を治してしまう、ある種の免疫力があるらしいことがわかってきています。

p95

福岡正信さんは、自然にまかせて人間はできるだけ何もしないことを理想としました。私の栽培法では、むしろ人間はできる限りのことをして積極的に関わります。

もう少しはっきり言えば、私の目指すのは、農薬や肥料のかわりに、自然の生態系を利用する農業です。あるいは畑に自然の生態系ね働きを組み込むと言った方が、より正確かもしれません。

ここで大事なのは、微生物たちの働きを、我々が上手に利用するということです。私たち人間が何もせずに、つまり自然にまかせておいたら、じきに畑は畑でなくなってしまうでしょう。

リンゴはおそらく枯れると思います。なぜなら、あの岩木山山麓の私の畑にリンゴの木を植えたのは、私たち人間だから。人間の都合で、そこに私たちはリンゴの木を植えたのです。

自然がリンゴの木を選択したわけではありません。私という人間の都合を岩木山の麓のあの自然に、言うなれば押しつけたのです。

p98

農薬だけでなく、私の農法では肥料も使いません。化学肥料だろうが、有機肥料だろうが使いません。

自然は無駄なことをしないのです。

大豆の根に共生して窒素同化をする根粒菌の粒は、大豆を初めて植えてから5年も経つと、ほとんどなくなってしまいます。土の中に充分な窒素が供給されると、根粒菌は活動しなくなるのです。

それと同じことで、肥料を施すと、たとえば窒素とリン酸とかを植物に供給する働きをする土中細菌が、どうやら働くのをやめてしまうらしいのです。

私が肥料を使わない理由はもうひとつあって、それは肥料を施すと根っ子があまり伸びなくなるのです。

p105

人間が害虫としている虫はだいたい可愛い顔をしていました。

反対にその害虫を食べてくれる益虫は、虫眼鏡で拡大するとなんだか怪物のような恐い顔をしていました。

猛獣に比べたら草食獣が平和な顔をしているのは、当たり前のことなのです。

p110

私が間違ったのは、ある虫リンゴの葉を食べているのを見て、その虫を敵だと決めつけてしまったことです。

それは真実のごく一部でしかない。生態系とは、生きとし生けるものすべてが、網の目のようにつながって生きている、命の全体の働きです。その全体がつながって、ひとつの命を構成していると見た方が正しいねかもわかりません。

その生態系の一部である生き物を、人間の都合で、善と悪に分けてしまうことが、そもそもの間違いの始まりだと私は思います。

害虫とか益虫という言葉に惑わされてはいけない。自然の中には善も悪も存在しないのです。生き物はみんな、それぞれの命を必死で生きているだけなのです。どんな生き物も、生態系の中で与えられた自分の役割を果しているだけなのです。

敵なんでどこにもいないと気づくことが、私の栽培法の出発点です。

虫が大発生するのは、大発生する理由があるのです。

虫や病気は原因ではなく、あくまでも結果なのです。虫や病気が蔓延したからリンゴの木が弱ったのではなく、リンゴの木が弱ったから虫や病気が大発生したのてす。

虫や病気は、それを教えてくれていたのです。

虫や病気と戦うのをやめたとき、自分のなすべきことが見つかったなだということを忘れないためです。

p113

私の畑の中での最高記録は1本の木に1400個以上なりました。

p116

土の中に必要なだけの窒素が行き渡ると、根粒菌は活動しなくなります。

だから、窒素過多になることはありません。

アブラムシは余分な栄養を食べに来ているのです。

その証拠に、肥料を施さない自然栽培では、アブラムシの被害を受けることがほとんどありません。

p119

だけど、私のように肥料を与えていない畑では、今まで何年同じ作物を植えても、連作障害は起きたことがありません。

それは、私の畑にはいろんな雑草が生えているからです。多種多様な草が生えているから、土の中の微生物が単一化していない。

雑草は、この連作障害を防ぐためにも必要なのです。

連作障害は、病気ではありません。土の中の微生物層が単一化しているために起きる現象にすぎないのです。

多種多様な生き物がいて、初めて生態系は守られる。

p125

その果樹の葉を参考にしながら剪定すると、自然栽培に切り替えても病気が出にくくなるのです。

p127

日本国内であればリンゴは基本的にどこでも育ちます。沖縄でもリンゴを植えている人がいます。

リンゴの木は2本植えてください。

違う品種でなければいけません。

品種のお勧めは、ジョナゴールドと津軽。

どちらも虫や病気への耐性が比較的強いので、初心者にも作りやすいと思います。

植える時期は3月から4月。遅霜が過ぎて、リンゴが葉を出す前に植えるのが理想です。

(リンゴ🍎の木の植え方✨を詳しく書いてくれています。)

それ以降の収穫は、その3年の間にリンゴの木や、土わ観察し、勉強して、あなた自身がどれくらい農薬や肥料のかわりを果たせるようになったかで決まります。

p140 自然を逆さまに見る

人間という動物は、五感の中でも特に視覚が発達しています。だからどうしても、目に見えるものを中心に世界を認識しようとします。

土の中のこと。

私に言わせれば、植物にとってまず何よりも大切なのは根っ子なのに、そんなものがあることをすぐに忘れてしまう。それが、いろんな間違いのもとになっているんじゃないのかなと思います。

土の中に隠れて、目に見えないわけだから、意識しろといってもなかなか難しいのだけれど、だからこそ想像力を働かせて、今この植物の根っ子はどうなっているのかを考えることが大切なのです。

根っ子さえしっかりしていて健康なら、リンゴはかならず元気を回復します。

リンゴに限ったことではありませんが、私ができるだけ水やりを少なくするように言うのは、土の中に窒素がたくさん存在する状態をなるべく保ちたいからです。

たから、土の中には植物が必要とする以上に水分がないように、水はけをいつも考えて育ててあげていただきたいのです。

1週間にいっぺんくらいは両足の間に頭を突っ込んで、リンゴの木を逆さまに覗いて

地上部の枝や葉がリンゴの足で、頭は土の中の根っ子だと想像してみてください。

作物を育てるときは、まず根っ子のことを考える。

p145

いかにコストのかからない農業をするかという努力と付加価値の高い農作物を作る努力が必要だと思います。

p150  リンゴ箱と学校

ひとりひとりみんな違う。

それなのに、リンゴ箱のようにひとつの教室に同じ年齢の子供を集めて、みんな同じという前提で教育をしていきます。それがそもそも間違いだと思います。

1本のリンゴの木になるリンゴの実だって、ひとつとして同じものなんかないのです。まして、ひとりひとりの子供は、みんな違っているのが当たり前なのです。

ことに私の栽培方法では、農薬や肥料を使う方法に比べれば、どうしてもそういう不揃いなリンゴが多いです。

人間も同じだと思うのです。子供たちをひとつのリンゴ箱に詰めるのは、あくまでも大人の都合です。そうした方が、効率がいいからそうしているに過ぎません。

だとしたら落ちこぼれは子供の責任ではかぬ、どこまでも大人の側の責任なのではないでしょうか。

子供はひとりひとりみんな違う。その違いを尊重し、違うことを前提とした教育を、これからはもっと考えていかなきゃいけないと私は思います。

p154  芽の前に出るもの

まず根が出てから、芽が出る。

貧弱に見える自然栽培の稲の方が根っ子は遥かに発達しているのです。

この地下の目に見えない部分が大切なのです

p156  自然の時間を生きる

森の奥で、草や木にお日様の光がどう当たるかを見て、一日を過ごしたこともあります。

朝日が昇る頃から、日が沈むまでずっと見ていてわかったのは、どの草も一日に1回はどこかで太陽の光を受けているということでした。

直射日光が1回は当たるようになっているのです。

自分の下に生えている雑草に、少しでも光が届くように、木は自ら枝を落としているんじゃないかなあと思うのです。なぜなら、雑草が生えていたほうが木は助かるから。

雑草が生えていたほうが、土中細菌が増えるということもあります。

それに草が自然のクーラーの役割を果しているのです。

夏の暑い日に雑草の生えている場所と、何も生えていない場所の温度を測ると10度近くも温度差があることがあります。

虫や草たちのことを観察しながら、そういうことをぼんやり考えている時間は、私にとっても大切な時間です。

たまには時計のことを忘れ、自然の時間を生きてみることも必要だと思うのです。

人間だって自然の産物なわけですから。

以上です。

良かったら、ご参考に🍀🌏✨

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